20110823

木を植えた男

            授業が終わった後も水を撒き続ける。声をかけるとはにかむ。 
            この畝に植えられた種が芽を出すのはそう遠くないことだろう。




8月17日(水)

2週間ぶりに訪れたエンコナーダ小学校。
少し遅れて到着すると、7年生は畑仕事に精を出していた。

半年前に比べると、表情も少し穏やかになったように感じられる。猿山状態だった以前に比べると、秩序というか責任感というか確かな成長が感じられる。それはただ、年齢的に成長したということなのかもしれない。44人での生活に慣れ、それぞれの立ち位置も安定してきたということなのかもしれない。もちろん全員ではないが、ゆっくりと何かが育っている。

授業の中で何か喜びを得ているような、
そんな真剣な表情が見られるようになったのは嬉しい。


カンバの農業は、基本的に世話をしない。

冗談みたいな話、食べ残しのトマトを排水溝に投げるとそのうちトマトがなる。そんな大地に恵まれ過ぎた土地柄。畝を作って、絶やさず水を撒いて、畝を作って間隔をあけて植えて、、そんなひと工夫で味も収穫量も増すというのにそういうことはあまりしたがらない。

だから、学校で。子どもたちに農業を教えることの意義は大きい。

農業のプロである同任地(お隣さん)のつるだ隊員の助けが非常にありがたい。
野菜先生がいることも、子どもたちにとって大いにプラスとなっていることだろう。


土を耕すこと、種を蒔くこと、水を撒くこと。


植物を育てるという行為は、自分自身の心を耕し、そこに蒔かれた種にも水を注ぎ続けるということなのかもしれない。世話をしないと枯れるというところもいい。

地道に注ぎ続けた愛情は、やがて芽を出し、花を咲かせ、身を結ぶ。

「木を植えた男」は、そうやって森を作った。

作ったというより、地道な日々の作業が結果、それが森になった。いや、気付いたらそれが森になっていたという方が正確か。それは彼の人生のスパンよりももっと長い地球的時間での話。壊すよりも作る方が難しいという話。人間のできることなんてちっぽけだけど、日々の営みが世界を変えていく。

植物を育てるというのは尊い作業なのだと、改めて感じる。


「育つものが近くにあるシゴトはいい」

地元の運動具屋の店主兼、小学校からお世話になっているサッカーチームのコーチの言葉だ。酒を飲むとカラオケが全部イツキヒロキになるが、指導哲学があるからいい。

どんなに大敗しても、勝つための指導はしない。育てるための指導をする。5年後、10年後にその良さに気付くような、そんなぼんやりした感じ。でもJリーガー出てるし、日本代表に選ばれた選手も排出しているのだから侮れない。ここで学んだことが、教師としての自分の原点になっている。

密かに師匠と慕っている。いいこというなーていうか尊敬してますまじで。



思うようにいかないからいい。変化があるからいい。

育つものに触れていられるのは喜びだ。そういう意味では教師は最高に幸せなシゴトであろう。

大根がかなりいいサイズになっていた。自習調理実習をやろうと提案してみた。
日本だとこういうのはかなり難しいのだが、さすがボリビア!2つ返事で快諾。

テーマは「日本の素材を使って、現地で手に入るもので味付けした料理」

ちゃんと世話をするといいことがあるんだと、そういうことでもモチベーションを上げていきたい。






" Los chicos que cultivaron verduras "


 Los chicos que viven en la comunidad de La Enconada sembraron las semillas. 

Y luego, todos los días les siguen echando agua atentamente.    

Al mismo tiempo siguen echando agua a los corazones de ellos mismo.

Espero que florezcan y esten cargado de cosecha, algun día.





「 野菜を植えた子どもたち 」


エンコナーダ村に住む子どもたちは種を蒔いた。

そしてその後、毎日丁寧に水を注ぎ続けている。

同時に、彼ら自身の心にも水を注ぎ続けている。

いつの日か花を咲かせ、豊かな身を結ぶことを願って。

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