「 太陽の”陽”子さんね 」
お日様のように明るく、みんなを照らすようなNHK朝ドラの主人公
こちらの学校で、自分の名前を紹介する時には、、
①ひらがな、②カタカナ、そして③漢字を紹介し、特に漢字は音だけでなく意味も込められているということを伝える。
赤ちゃんが生まれた時には、両親が願いを込めて名前を付ける。
日本人は一人ひとり、そういう願いを抱いて生まれてくるということだ。
そういう文化は非常にステキだと思う。
”中野陽太郎”は、" Medio Campista Niño del Sol "(サッカーのミッドフィルダー・太陽の子)ということになり、フットボール好きなんですよーみたいな感じのつかみで授業を始めていく。
ちなみにボリビア人は2つの名字を持っている。
一つは父方の姓、一つは母方の姓。
カウンターパートの名は、
" Jesús Efrain Donaire Sánchez " → ”名前①、名前②、父方の姓、母方の姓”の順である。
この両親の姓を受け継ぐ文化。例え親が離婚したとしても本人の生まれ持った姓は変わらない。
「 だって親が分かれたって、本人が変わるわけじゃない 」
生まれてから死ぬまで、ずっと同じ名前。
家庭の事情により、突然名字が変わってしまうなんてことが日本の小学校ではある。
クラスメートの呼び名が、ある日を境に変わる。
家庭の事情なんて誤魔化したって、それが親との別離によるものだということは東京の小学生なら低学年でもわかる。でも言わない。曖昧ににごす。
日本の結婚制度は、家と家との結びつきという意味合いが濃いのだろう。
それに比べるとボリビアのそれはもっと個人同士の約束というかたちか。
こちらの日系人の方たちも皆、" Yonekura Fukuhara "や" Ikeda Asano "のように2つの名字を持っている。
さて、話を名前に戻そう。
「 太陽の”陽”太郎 」
ではないかな自分は。そう思う。
コロンビアにいる友達の送ってくれたメールの中に、こんな言葉があった。
「 陽太郎くんは、『太陽ってよりも月のようだな』って僕は感じてんねん 」(彼のトークは関西弁なのでそのイメージで)
どきっとした。
太陽とは違って、満ちていったり、欠けていったり、かたちを変えていくところ。
そこまでの絶対的で、強烈な光を放つほどではないところ。
ほんとはルパンよりも、次元的なポジションがしっくりくるところ。
戦隊ものでは絶対に赤よりも、青か黒!
そしてどちらかというと、日の当たらない道を好んで歩んできたところも。
あぁそうかも。月っぽいかも。
でも最近思う。月はいいな。
だって、独りじゃない。たくさんの星に囲まれて、時にどっしり、時に頼りなく浮かんでいる。
太陽の光は、周り星たちの輝きを奪ってしまう。実は見えているはずの星たちの光も。
今にも消えそうなほっそい月には、いつもよりたくさんの星たちが周りを囲む。
新月の夜にはもう最強MAX。サンファンでは、普通に天の川まで夜空を架ける。
そして、東京では感じなかったが、月影の濃さ。月の明かりは想像以上に強い。
でも太陽の光とは違う、さらさらとした静かで厳かな明かり。
いつだって何かに照らされて輝いているのだろうな。
父さん、母さんごめんなさい、、!!
今は太陽よりも、月的なものに憧れる。
太陽は、いつだって僕の周りに在った。そして今も。
それが友達だったり、サッカーボールだったり、尊敬すべきオトナたちだったり、同じ志を持つ仲間たちだったり、出会ってきた子どもたちだったり、描いた夢だったり。そして、ツマの笑顔だったり。
そうゆうものに照らされながら、今日も微かな光を届けたい。
「 太陽に照らされた、”月”太郎 」
ふくらんだ想いも、願いも、迷いも、ゆっくりと静かに夜空に吐き出していく。
月、欠けていってるから、大丈夫ですよ
( 西加奈子「きいろいぞう」より )
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