20110225

どぶ川に一石





・やれるだけやってみよう!!

・やれることからやってみよう!

・やれることならなってみよう、

・やれることなんてなかったらどうしたらいんだろう、、、

ボランティア活動の4段活用。


もちろん、ボランティアしようっていうのだから情熱や奉仕の心は有り余るほど持参して任国の地に一歩を刻む。
しかし、活動の現実の壁にぶつかっていく中で、たたかれ、けずられ、すり減っていく心。

ぶつかれるならまだいい。悩みや葛藤の中にも変化がある。
変化があるということは、成長の可能性があるということだ。

しかし、すかされたりまるで手応えがなかったり。「自分のいる意味はなんだろう」「必要とされてないのでは」というような仲間の声を最近よく耳にする。

赴任後、8ヶ月。生活にも慣れ、活動もやっと本格的に動き出し、周囲の期待、そしてそれと裏腹のすれ違いも徐々に顕在化してきたのかもしれない。

何よりも活動計画表なるものを策定してしまったがために、自らのノルマを課してしまったということも、焦りや苛立ちに拍車をかける一因となっているのではないだろうか。
カウンターパートや職場の人とよく話し合って、といっても、双方のキモチを100%理解できるような語学力をもつボランティアは果たして世界に何人いるか。

日本で働いていたって、考えを合わせて一つの目標に向かって進む、というのは容易なことではない。会社や課の方針(学校だったら学校の)に合わせて、というのなら可能かもしれないけど。

働いている人は、機械ではない。一人ひとり違う考えをもって、意志をもって生きている人間だ。
どちらかが、完璧に指示に従う、というのなら成立するだろうが、特にボランティア活動においては、主導権は双方にあり、軋轢が生まれるという結果は容易に想像できる。

つまり、「これをやってみたい」が、必ずしも相手の「やってほしいこと」とは限らないということだ。

自分のやりたいことが理解してもらえない、受け入れてもらえない、そのチャンスすらない、、

対象者たちが思い描いているイメージと、主体者の想いとが食い違っている例。
やる気がある分だけ空回り感も相当なものだろう。

「こんなことをするために来たのではない」

もしこんなことを考えるなら、今すぐスーツケースに荷物をまとめて日本に帰った方がいい


とは思わない。

それでもやはり、相手のためにできることを模索するべきである。
やれるだけやれることがほとんどなかったとして(もしくは全くなかったとしても)、それでいいではないか。自分の思いを実現させるためだけに活動しに来ているのではない。

JICAの援助を引き出すおまけとして、代用教員としてしか見られていなかったとしても、いやだからこそやれることがあるのではないか。

これは競争でもないし、だれかがテストしているわけでない。
みんな何がいいか分かっている。
不満はためておかない方がいい。それが明日の活力になるのなら。

ノルマも評価も、自分が決めること。

要請内容も、社会や職場の状況も絶対にみんなちがう。
だれかと比べることに意味はない。焦る必要もない。


もしそれでも、自分が満たされないのなら、自分が成長するしかない。
相手のせいにするのは簡単だ。事実、自分だけが悪いなんてことはない。
でも、人や環境のせいにしてしまったら、成長はない。
もし、その困難を自分の力で乗り越えることができたのなら。
昨日よりも少しだけ強くて、やさしい自分がいる。

人を変えるよりも、自分を変える方が遥かに簡単だ。
自分が変われば、世界も変わる。
そうやって、自分の芯をみがいていけばいい。
いつもそう考えるようにしている。
なかなかそうも言ってられない時もあるが。いやなことは、、まぁすぐに忘れるに限る。
そんなことに囚われてる時間がもったいない。


もっと高いところにある目標を目指す”志”を。


”心”は一人ひとり違う色。

”志”も一人ひとりちがっていい。

でも、一人ひとりの想いはちがっていても、”志”の向きは一つに重ねることができる。


どれだけ互いの接点を見出し、より高いところの目標で一つになれるか。
それが大切なのだと思う。

そんな高尚な活動はしていないけれど、大きく構えていきたい。


写真は、サンタクルスのDDE(旧称SEDUCA・教育局)の前の川。
環境教育する前に、自分家の前の川なんとかせい。

さて、環境問題はやはり教育から。
この国のためにいったい何ができるだろう、、、やれることなんて、、あるか?ムリっぽくね?

どぶ川に一石を投じてやる。
よごれるのなんて覚悟の上。



※これは任国の状況がどぶのようだというわけではありません。いちおう。

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