20110628

スタートライン2






前回の続きです。

センセイはどうも話が長くなっていけない、、



「 国際協力は、自己満足であってはいけない 」という言葉がある。


基本ボランティアである以上、出発点は必ず本人の自発的な意思である。

同機は様々あるとして、そのベクトルはすべて対象となる相手(僕らでいうと任地の人々)を助けたいということになるはずだ。

だから活動においても、出発点はすべて対象の立場に立ったものでなければならない。

極端に言えば、自分がやりたいと意気込んでいたことでも、相手に必要とされていなければそれは活動するに値しないということである。

現地で望まれていることと、自分のやりたいことの接点を探すことがまず第一。そして、自分にできることを増やしていくことが望まれる。それは語学の力であったり、専門性であったり。


自分のやりたいことをやって満足感を得るだけなら、それは国際協力とは言えない。

自分が楽しかった、自分のためになった、最終的にそれが残ってもいい。

でもそれは目的ではない。

だから、その効果と成果を具体的に評価し、かたちや数字で表す必要がある。ものを作るというのは分かりやすいが、それを持続可能な支援につなげるのは簡単ではない。

かといって考え過ぎると何もできなくなる。この自己完結型はもっとサイアクだ。



先週はサン・ファンの日(聖ファンの祝日)があり、市役所主催のお祭りが開催された。要するにいろんな催しがある中で、それを肴にビールを飲むということである。市役所配属なので当然その手伝いをすることになった。

会場でビールを売り、空き瓶を回収し、酔っ払いにからまれ、ごみまみれの会場に辟易し、、

「こんなことをするためには来ていないなぁ」とは思った。

ビールを残す。ソーダを残す。食べ物を残す。ごみはそのまま捨てる。。ぜんぜんお金持ってんじゃないか。日本が資金を出して援助する必要なんてないんじゃないか。

スール(南極発の南風)が身に染みる。アルバイト感覚で使われていることにも若干の苛立ちがあった。まぁ一年に一度のお祭りだから、かと思えばそうでもない。結構いつも祭りのイメージがある。

すぐにばっくれようかと思った。でも、ここで途中で帰ったり諦めて何もしなかったら、それは「自己完結」になる。

まずは会場のゴミを拾いにいった。焼石に水であるが。

広場を1周。30分で大きな袋が満杯になった。自分の心も少し満たされた。


でもこれではまだ「自己満足」に過ぎない。



自分の気持ちをすっきりさせるために、思い付きで行動しただけだからである。会場は少しきれいになった、かもしれない。でもそれは、後には続かない。

ボランティアがただゴミ拾いをしただけでは、ボランティアがいなくなったら後には何も残らない。

ゴミ拾いをしているとみんな「プロフェー」と声をかけてくれる。途中教え子が両手に握りしめたゴミを袋に入れてくれた。さわやかに手伝ってくれた日系人の家族もいた。声をかけたら熱心に手伝ってくれた子供たちがいた。

待っていてはだめだった。

一緒にやること、具体的に指示すること、そしてそれを評価すること、つまり褒めて感謝するということ。

手伝ってくれたお礼にお菓子をあげた。「それの包みはゴミ箱に捨てるんだよ」そうやって少しずつ学んでくれればいい。

「そこにある水道で手を洗うんだよ」


でも、まだこれは「国際協力」とは呼べないかもしれない。


もしこれを小学校とタイアップしてできていたら。
本当にキャンペーンをしなきゃならないのはこういうイベントの時だ。
翌日にみんなでゴミを拾いに行って、そのひどさを再確認するのもいいかもしれない。
ゴミの分別の仕方なんかを学ぶのもいい。
食べ物のゴミの多さを知れば、そのまま捨てない方がいいと気づけるかもしれない。

教えるのではなく、必要性を気づかせること。

そういうもっていき方をすれば、これはこれからも続く意味のある活動の始まりになる。

拾ったゴミの袋はオフィスにキープしてある。

これを小学校でぶちまけてみるのもおもしろい。

「これはすべて広場で拾ったもの。これがもし学校や教室、自分の家、もし部屋の中にあったらどう思う、、??」

そうやって問題提起していけばいい。誰だって知っている。ゴミをその辺に捨ててはいけない。風で飛ばされてどこかに消えてなくなるとでも思っているのか。でもその「なぜ」を実感させるのが教育のシゴトだ。教科書で学ぶことではない。そして、次のイベントでの活動につながれば。

ここまで計画を立てて実行すれば、これは「国際協力」と呼べる。

必要とされていることを、任地の人たちの願いをもとに、共に計画し実行する。

子供たちと一緒にゴミを〇袋集めた。イベントの後、広場がきれいになった。次回のイベントでも実施、となればこれは素晴らしい。



「国際協力は自己満足であってはいけない」けれど、ちょっとくらいは満足感が得られなければやってられないのも事実。

要はその問いかけと、バランス感覚。

相手のために自分をコロし続けるのも長くは続かない。だとすると、自分のできることの幅を広げるのがベターな解決策か。


「自分がここにいる意味」をちょっとわかったような気がした長い夜。

極寒のスールに吹かれながらのゴミ拾い。それが国際協力のスタートライン。


いつもの通勤路。シルコは消えても、風に飛ばされた昨夜のゴミがいたるところに、、ウユニの線路脇のワイルドフラワーを思い出した。

スタートライン

            




「国際協力」について考えてみる。


ボリビアに到着してから1年が経った今、
考えてきたことと、実際に自分が経験してきたことを照らし合わせてみたい。

その考えをここに記しておく。


まず、今までイメージしてきたような「発展途上の国を、技術的に進んだ国が援助する」という構図は、正直くずれた。

それはもちろん悪いイミではないし、この国のこの町の学校現場で感じたことだという前提を断っておく。


なんていうか、あんまり困っていない、のである。

もっと向上したい!とは思っている。実際に積極的に声をかけてくれる先生方もいる。
でも、そんなムリしてシゴト増やしてまで発展しようとは、おそらく思っていない。

わざわざボランティアを要請しているのだから、きっと現場は切迫していて、具体的に貪欲に日本の技術を吸収したい、そういうモチベーションを持っているのかなと思っていた。

言い換るとするなら、「援助する」側と「援助される」側の関係であっても、それに上下はなく、ある種対等な関係がそこにはある。
ボリビアに関して言うなら、発展はしてないけど成熟はしている。

制度や技術にまだまだ進歩や改善の余地はあるが、社会としては成熟している。つまり今のままで十分幸せだということだ。

先生たちもそれなりのペースで頑張っているし、自分たちの仕事に誇りも持っている。日本の技術を学んでやろう!という切実さはあまり見られない。みんなのんび~りやっている。(これは国民性も大きくかかわってくるのだろうが)

だから一方的に、進んだものだからと自分たちの価値観を押し付けるのは、支援の在り方としては間違っている。

そういう援助のかたちもあるだろうが、僕たちにできること、求められていることは違う。

それがいいかどうかは任地の人たちが判断することで、その良さをどのようにして伝えるかがボランティアの腕の見せ所となるわけだ。

でもそれが一番難しいわけで。
試行錯誤しているうちに1年間が過ぎ去り、、最近やっとその芽吹きを感られるように至ったわけで。。



おそらくこれは、世界中のボランティア仲間が程度の差こそあれ体験していることに違いない。

もちろん例外はあるだろう。

でも、肩の力ががくっと抜けるような、そんな感覚を経験した人も多いに違いない。

そんな中で、「自分は何のためにここにいるのだろう」「自分がここにいる意味をみんな知らない」そういう自問自答を繰り返す日々もあるだろう。

先日の最終報告会では、実に多くの先輩隊員がこの言葉にふれていた。

でも実は、その問いに達することが一つのスタート地点なんじゃないかと思う。
もともと、自分の能力を100%発揮できるような、受け入れ環境なんてあるのだろうか?

もちろん日本にだって、ない。

誰だって現場に立ち、厳しい環境にさらされながら経験を積み、己の専門性や技術を高めていく。その過程には「自分は何のために、、」の問いを繰り返すこともあるだろう。時には自分をコロし、その中で最大限自分を生かす術を磨き、そうやって社会に責任を果たしていく。

ボランティアは遊びではない。

それ故、前述したものと同等の覚悟が必要である。
100%組織がおぜん立てしてくれて、うまくいくように手を引いてくれるなんてことはありえない。
だからそれを誰かのせいにして、自分を護るなんてことは基本的に反則である。

そういう自己完結型はサイアクである。

自分のいる意味は、やはり自分で見つけるものである。

思い出作りは簡単にできる。そういう国際交流は日々暮らしているだけで行われていく。

そして最後に楽しかった、一番ためになったのは自分だ、と笑顔で感想を述べればいい。

でも、それではだめだ。

少しでも意味のあるボランティア活動を。

国際協力は、そのスタートラインに立つことすら難しい。



書きたかったことが収まらなかったので、次回に続く~

20110624

ガラスの少年

            エンコナーダ小学校2年生。かけ算の授業をしました。
            この日、ガラスの少年ホスゥェはお休みでした。残念。。



エンコナーダ小学校で巡回しているもう一つのクラスがこの2年生だ。
一番最初に校長先生に、「助けを必要としているクラスはどこですか」と聞いたところ、紹介されたのが7年生の他にこの教室。どうやら何人かの男の子たちに手をやいているとのこと。

初めて訪れた時、国語の授業で疑問符の使い方を教えていたのだが、いきなり文章を作らせていたので子供たちが四苦八苦していた。条件を限定すること。例えば先生に質問するとか、友達に聞きたいこととか、具体的な場面をイメージさせてあげると活動が深まるよと助言した。

そうすると、次回には、互いに質問しあうようなインタビュー形式になっていて、PROMECAっぽい(児童が主体の授業)なぁと感心したり。先生には学ぶ意欲がある。

担任の先生は穏やかで低学年向きそう。子どもたちも一生懸命勉強している。


うーん。特に問題はないように思えるが、、


でも、問題は教室の中にはなかった。彼女の抱える問題は教室の外にあった、いや、居た。

誰かずっと教室の中をのぞいている子がいるなぁ、、とは思っていた。

でも身体も大きいし、他クラスの子が授業中に通りかってのぞきこんでいるなんて珍しいことではないので、特に気に留めていなかった。

でも彼、ホスゥェ(ホセではなくホスゥェと発音しないとだめだしされる)はこのクラスの一員だった。。

しかも先生の前の特等席だ。

「あっキミ2年生だったの、、!?」給食をもらう列に並んだ時に初めて気づいた、、

どうやら離席・離室が著しい彼、そしてそれに同調しつられる男子たちに手をやいていているということだった。

ホスゥェは勉強だけでなく、友達との関係作りにも課題を抱えているらしい。

現在10歳の彼はフクザツな事情を抱えている。サンタクルスからの転校生で、幼稚園に通っておらず2年ほど留年している。ざっと聞いたがここにはとても書けない。でも彼の課題はもっと先天的(後天的なハンデの可能性もあるが)なものではないかと感じている。

これは特別支援の分野になってくる。


教室での全く授業に参加していなかったので理由を聞くと、、「鉛筆を忘れた」

「なるほど」

「特別だよ」と言って、がんばるように告げ貸してあげる。

おぉいいぞ!やってるやってる。自分なりにがんばっているところをすかさずほめる。

でもその後、先生にしかられ意気消沈、、やる気も散逸。残念。。



休み時間が終わっても帰ってこないので探しにいくと、外でガラス玉を使って数人でおはじきのようなゲームをしている。注意を促すと友達は教室に戻ったのに彼は1年生を捕まえて離さない。

1年生の子に「もう勉強の時間だから教室に戻ろうね」と話しかけ続けると、理解し教室に帰っていった。でもホスゥェはその場を動くことができない。

「どうしてここにいたいの、、?」

 「ビー玉で遊びたい」

「もう休み時間は終わったよ」

 「でも、ビー玉で遊びたい」

「教室に戻らないといけないよ」

 「でも、、遊びたい」


困ったような微笑みを浮かべながら答える彼。その場を動くことができない。

待ってみるか、、

こういう時は、先生がフツウしなそうなことをやってみる。
他の先生だったら注意して叱るだろうから、あえて黙って見守ってみる。

一緒に遊んでみる。

教室に戻るように誘ってみる。

彼は動くことができない。

教室に報告に行く間、ちょっとほうっておいてみると、彼は1年生を捕まえて遊んでいた。


これはいかんなぁ。。

手を引き教室の前まで連れていく。以外と抵抗しない。なぜだ。
先生に声をかけられ教室へ。

すると突然、、、ホスゥェの目から大粒の涙が、、!?

やばい、、ちょっと怖かったかな、、それとも引っ張るのが強かったか、、理由を聞いてみる。

「どうして泣いているの?」

 「ビー玉で遊びたかった、、(泣)。」

「他の理由はないの?」

 「ビー玉で遊びたかった、、(号泣)。。」



ふつう2年生は「遊びたかった」が理由では泣かない。
あまりにも純粋に答えたので、少し狼狽えてしまった。。

しかしその5分後、何事もなかったかのように、また普通に接してくる彼。

先日訪れた時、学校の入り口の金網を号泣しながら蹴り続けていた。朝っぱらからガラスのハートが砕けちまったんだね。いやむしろ理由なき反抗であったかもしれない。その後、お父さんらしき人と話している姿を目撃したが、ここは踏み込めない領域だろう。


担任の先生とは放課後、特別支援の概念と今後の支援について話し合った。

・まず最初に彼の問題行動は、先生の指導に問題があるからではないこと。

・一人ひとりに個性があるように、彼の抱える課題も個性であるということ。成長のスピードや方向性が違うというだけのこと。それ故、個別に対応していく必要性があること。

・教室で座り続けることが難しいのなら、気分転換に離室することも許可していい。ただし、先生の許可を得ることと、周りの子と一緒にいかないことを指導するということ。


彼を支えてあげられるのは、担任の先生しかいない。でも、一人で全てをカバーするのは不可能だ。もしこのままいけば留年は確実、、。もう後はない。

もし共に進級すれば、彼の成長がゆっくりであったとしても周りの子が成長する。その分、彼を支えてあげることができる。でも、もう一度2年生だったら周りの支えも理解も十分には得られないだろう。これも落第制度の弊害である。

彼との関わりを通して、周りを成長させるということ。これも教育なのではないか。


そして、学校全体の理解と協力体制が不可欠である。校長先生とも相談し、各学級の課題について共通理解を図れるようにお願いをした。

子どもの成長にとって最善の方法を。そのための学校であってほしい。


現在は学級経営と学習指導の両面から、支援を行っている。

 算数の模範授業、教室の環境整備、休み時間は全力で遊んでいる。
そしてやっぱり頑張りをほめまくり。


今日7年生と遊んでいたら、遠くから名前を呼びながら走ってきて、プロフェーと抱き着いてくる。やっぱりかわいいなぁ。

ガラスのハートを持つ少年ホスゥェもやってきた。ビー玉のような目を輝かせて憎らしいほどの天使の微笑。

また突然泣かれたとしても、やっぱ憎めないんだろうなぁ


20110623

種まく人々

          
            エンコナーダ小学校7年生46人。学校の裏手にある川(濁流?)にて。
            喉の渇きを潤したり、汗を流したり。。ワイルドです。








「どうしちゃったのよキミタチ、、!?」




数か月前、久しぶりに教え子たちの教室にいったら驚いた。

日本で言ったら、学級崩壊の状態だ。。

ここボリビアでは先生の絶対権力が強いせいか、そんな学級はほとんど見たことがない。(低学年では何度か目にしたことがあるが)何もしていない、参加していない、何か他のことで気を紛らせているといった子はよく見かけるが、一応黙って座っている。

これは強権ではなく授業の魅力で惹きつけるべきことで、そのための力添えはまさに自分のシゴトであるのだが、、

新任のプロフェソーラは木の棒を握っていた。それもけっこうごつめの、、そしてリアルに使用していた。

これは何とかしなければ、、

この7年生。去年一緒に「南中ソーラン節」を踊ったこともあり、自分の中でも特別に思い入れのあるクラスだった。




「どっこいしょ」なんて言うかな、、音楽もダサイとか言われたらどうしよう、、

担任の先生からの要請で、教えることになったのだが、受け入れられるか不安は大きかった。

でも、真剣に一途に練習に励む姿。
「どっこいしょ」とは発音できずに「どっこいちょ」になっていたけれど、日本もボリビアも、子どもたちに変わりはないんだなぁと実感させらた経験となった。

だから思わず力も入ってしまう。練習回数を増やしたり、はちまきを作ったり、、、そんなクラスがちょっと全然ちがう雰囲気になっていた。。





よく数えると知らない子がけっこういる。1、2、3、、、??

46人!? それが1クラスに。

確か去年は29人。。それでもここでは多い方だったのに、、17人も増えてるし、、

どうやら7年生に進級する際に、近隣の3つの分校から子どもたち編入してくるという仕組みになっているらしい。それはまだいいとして問題なのは、留年組。けっこうな数がいる。

ここボリビアでは、義務教育において落第制度が設けられている。
家庭の事情によって就学が遅れたり、離籍をしていたりと、日本とは違う事情があるので、制度の是非はおいておく。

学年末には成績の悪い(あえての表現)子を対象にした"Reforzamiento(補習教室)"が開校されそこで何とかフォローをするということになっている。そこでも見込みがなければ、もう一度同じ学年をということなのだが、、実際は指導要領(国としての教育のノルマ)がない状況下で、個々の先生方の裁量で授業を進めているという現状。授業の内容や指導技術についても大いに改善の余地のあるところ。それ故、留年を決めるのは、ほぼ先生の主観ということになる。

だって、ここまで出来たら進級!という客観的な基準がない中で決定を下すわけだから、それにはキケンが伴う。

ルールや基準が曖昧なのに、それで判定を(それも重大な)下してしまうというこわさ。

もともと学力を保障するための制度でしょう。それは一つのモチベーションであって、脅しのムチではない。日々の授業の改善で学力をつけることが前提で、最後は補習で何とか押し上げ、すべりこませるのが教師の力量でしょう。

去年の7年生は2クラスあったが、どちらも成立していなかった。
その中で留年してきた子たちが、今の7年生と同じクラスに在籍している。

当然モチベーションは低い。もともと先生との関係につまづきがあったり、個々に課題を抱えているからの落第である。「一緒になんてやってらんねえよ」の気持ちも分からないでもない。

新しく分校からのメンバーが増える中で、留年組の存在。

これは学級経営は相当難しい。。

46人を2クラスに分ければ解決できそうな気もするが、それできないそうだ。

教育長にも掛け合ったが、申請はしているが学期始めじゃないと難しいとのこと。
部屋は図書室を片づければなんとかなる。でもあと一人の人員配置ができない。


でもやるしかないな。

まずは校長先生を通して、学校全体に情報を共有してもらった。
他に巡回しているクラスにもそれぞれの課題がある。
まずは全体でそれを共通理解し、担任の先生個人でなく、学校全体の問題として捉えること。
それで担任の先生の負担を少しでも軽くしたい。

去年はJICAカレンダーに採用されるほど豊かに実っていた農園が今年は、ザンネンな状態になっていた。職業教育の農業実習の時間、7年生は好き放題遊び回っていた。

そこで、同任地の鶴田隊員(野菜センセイ)とコラボして授業を手伝っていくことにした。初日にさっそくダイコンの種を植えた。

土を均し、手のひらで細かく砕き、そっと、すっと、ぱっと、ざっと、ちゃちゃっと十人十色で種を植えた。

やっぱり集中するポイントはある。遊んでいたのは結局やることがないから。46人もいて毎回ゴミ拾いではそれは飽きてしまう。こちらがいかに魅力的な教材を提供できるか。

その後、教室で残った時間を使い折り紙を教えた。

まずはゴミ箱から拾ったもので。

①折り紙はリサイクルのアイデア
②良く観察して良く聞くことの練習
③想像力を高める訓練

そして、次に冠を作り部屋を掃除していた子にあげる。
ものを大事にする、環境をきれいにする、ということも大切だと教える。

その直後、窓の外にゴミを捨てた子がいた。「おいーっ」

おそらく悪気はない。分かっちゃいるけど、、の習慣なのだろう。 


・まずは意識させ、良い方向に価値づけることから

・そして、どんなことでも見つけてほめること

・計画、指示を明確にオンとオフの区切りをつけること

・さらに言うと、一緒に遊ぶこと


この4つで、クラスの雰囲気は必ず変わる。必ず。それは自分の拙い教師生活でつかんだ確信だ。

それプラス真剣にしかること。授業のおもしろさ。


きっと、いろんなオトナたちからしかられ、棒でたたかれ続けてきたのだろうから、学校はいいもんだということを味あわせてあげたい。それを担任の先生と共有できたら最高だ。



今日、農園を訪れたら、大根がきれいな列になって芽を出していた。

子どもたちは自慢げに声をあげ「ボニートでしょ」と聞いてくる。

こうやって心ってのは耕されていくのかもしれないなぁ


水を撒いたらやることがなくなったので、手つなぎオニとドッジボールをやった。
どちらもあまり体力差が出ないので、どこでやっても好評だ。

少しずつ積み上げていけばいい。

今日も赤土の大地に種を蒔き、水を撒く。


「今年もソーラン節やりたい、、??」と聞いた時の目の輝き。あっすげぇ。

まだ死んではいなかった。去年蒔いた種は、まだ、生きている。




20110622

6×6=33






私事でたいへん恐縮ですが、先日、6月6日で、

33歳の誕生日を迎えました。

ぼくの事を祝うわけではけしてありませんが、町はずれの広場にシルコが来ています。

おシルコではありません。シルコ=サーカスです。
うわさによると、9割パヤソ(ピエロ)のMCだとか、、近いうちに語学学習の成果を計りに訪れてみようと画策中ですw

さて、誕生日。


なんだか自分の口から言うのも憚れるような気がするし、自分が祝われるのも何だかむずがゆく居心地がわるい。

いつも通りでいい。いつも通りがいい。わざわざ大げさにしなくていいんですよ。

そしてその一日は、特別なことはなく、慌ただしくいつも通りの日常があり、
同時に、いくつかの忘れ難い出来事がありました。

人生の中では久々に味わった、数えるほどの安っぽい一日であり、
同時に、ランキングできないプライスレスな一日。

きっと忘れない。いや、忘れ難い。そんな一日でした。


安っぽかったのは、同僚の2人に半ばさらわれ場末のカラオケバーでアミーゴに捧げる曲メドレーを聞かされた、、聴かせていただいたこと。ていうか、誕生日にかこつけてシゴトを抜け呑みたかっただけでは?のギモンも。。

帰ってからパソコンを開くと、、そこにはたくさんのメッセージが寄せられていたこと。ちょっとびっくりするくらいたくさん。これは心臓がぎゅっとなりました。。これはほんとプライスレス。

いとこが心配していた「faceなんたらの友達全員から、おめでとうメッセージなんて来たらたいへんやん」

まんまと策略にはまった感はありますが、やはり素直に嬉しかったです。みなそれぞれに思い出があったり、でも疎遠にしていたり。短い手紙をたくさんもらったようで、科学技術の進歩に感謝です。

未だに、全員に返事ができないのが心苦しいのですが、、

ありがとう。

ただ、その一言に尽きます。

そうやって、他人のために、少しでもココロとジカンを割いてあげられる人はなんて素晴らしいんだろうと思います。

みんなに祝われるのが心苦しいわけを考えてみると、、

自分はそんなに人を支えてないし、助けているわけでもない。ココロとジカンを与えていないのだと自覚しているのだということに尽きます。

まずは身の回りの人から幸せにしなきゃなといつも思っている。

そして、いつもこのお返しをしよう、しよう、したい!と思っていながら、やっぱり月日は流れる。

1年前の駒ヶ根で、あれだけ最高のタイミングで最高の祝福をされてのに、、ぜんぜん返すことができていないなぁ。。

でも「申し訳ない」じゃなくて、やっぱり「ありがとう」なんだと思う。


インターネットが発達していない時代だったら、きっとこんなにたくさんの人たちとつながることはできなかったに違いない。

絶対不可能だったことが可能になった現代社会。
ぼくらは、、劇的に進化する情報環境の渦の真っただ中にいる。
今までは成立し得なかったような、国境を越え光の速さでつながることができる世界。

でも、その変化のスピードも、広がりも、おそらく既に人間の能力を超えている。

それは人類の歴史上、未だいまだかつて誰も経験したことがないような新たな世界。

インターネットを通して無限に広がる可能性を秘めた関係性。しかし同時にそれは、一つ一つのつながりのイミもイロも限りなく薄く細くなることも示している。

無限大につながる人と人との絆が、限りなく薄くバーチャルなものになっていく。

それはまるで、星と星の間を光のスピードで引き離す宇宙の膨張のように、僕たちの人間関係を猛烈なスピードで引き裂いていく。

時代は21世紀。昔描かれた近未来。そんな時代に生きている。

でもどんなに文明が進歩して機械の性能が上がっても、1日は24時間でしかないし人間のアタマでできることにも限界がある。

だからきっとムリなんだと思う。

掌ですくえるものも、両手で抱えきれるものも人類が誕生してから、きっとそんなに変わっていないんだろうね。

だとしたら、まずは両手でそっと救い、抱えきれるだけの幸せを抱きしめることから始めよう。

そしてこんな時代だからこそ、空想ではなく、現実の世界で巡り合った絆をタイセツに温め続けたい。

色々ときれいごとだけでは済まない世の中です。

例えどんなスピードで引き離されようとも。ココロだけは強く優しく、自由に生きたい。

妻や家族を始め、世界中に散らばる仲間たち、サンファンで出会った仲間。

いつもうまく表に出せないのだけれど、本当にいつも感謝しているんだよ。


やっぱり誕生日は、周りに感謝する日なんだな。


この場を借りて、もう一度。ありがとう!!!

今度会った時にゆっくり話しましょうー^


そうそう。ボリビアでは6月6日は”DIA DEL MAESTRO"=「先生の日」なんです!

そんな不思議な縁を感じながら、今年も走り続けます!!

またまた私事ですが、、先日のEKIDEN大会。30代の部で区間賞を取りました。
サンファン市で一番体力のある30代ということで、、笑

20110618

ソガソガ

            
サン・ホセ・オブレロ。休み時間の一コマ。 
            みんなで長縄飛びにチャレンジ。秋晴れの空が心地よい。


みんなで仲良く、、と言いたいところだが、実際はそんなに甘いものではない。
一番苦手なのは順番を待つこと。一列に並んで待つなんてことができない。
特にこの学校の子たちは、ハングリー精神満載である。

「一人でとびたい。。だってその方がとびやすいから。」

人を押しのけてでも自分の我を通す。
ここボリビアでは主張しなければ、その意見も存在も埋もれる。
悪い例では、ストやブロケオ(道路封鎖)をすると主張が通るという体たらく。

でも子供たちに関して言えばそれはむしろ悪い意味ではなく、そうやってみんなたくましく生きている。競争や順位をつけたがる社会性も関連があるだろう。


でも、そうやって一人で遊んでいる時、周りのみんなはどうしているか、、考えたことはあるかな、、?


始めはきっと応援してくれるかもしれない。すごいねぇって感心もしてくれるだろう。

でもそのうちこう思うようになるだろう。


「〇〇ちゃんはわがままだ。」


そういう目線を浴びながら得られる楽しさは、心からのものだろうか。
それに気づいてすらいなければ幸せと言えるのだろうか。

みんなで遊んで、みんなで笑った方が、きっと何倍も楽しい。

そういう大切なことも、学校で学ぶのです。

どうもわがまま(ハングリー)っ娘が多いので、その辺の金物屋で買った縄を、1週間の約束でクラスに貸した。先生にも意図を伝え、「みんなで遊ぶためにプロフェが貸してくれたんだよ!」と日常的にフォローしてもらう。

うまくいかないことからもたくさん学んでほしい。

大人の手を介さずに、自分たちで考え悩んで笑顔になれる方法を見つけてほしい。
途中、管理が悪かったので久々に本気モード(の演技)で叱った。できれば使いたくなかった手だがやむをえない。
失敗しない方法を教えるんじゃなくて、失敗から学ぶ方法を教えたい。
そういう経験やそうやってできた仲間は一生ものだから。

しばらく後に訪れると、みなが「ソガソガ」言ってくるのでなんだと思ったら

「ソガ("soga")=なわ」 

あぁ長縄か、、!


「みんなで飛ぶ練習をしている」 「他の学年の子とも一緒に遊んでいる」


救いの手を差し伸べてくれるのは神様だけ、ではない。

困ったときに手を差し伸べてくれるのは、周りにいる仲間たちだ。

作るのではない。気が付けば傍にいる。そういう一生ものの仲間を作ってほしい。
わがままだと思われる子は、うまくベクトルを変えてあげると周りを引っ張る存在になれる。

そういうことを伝えるのも、立派な技術支援ではないかな。
地味ではあるけど、日常的になんだオレ先生っぽいかもってこともやってます。

子供たちの人間関係があったまるにつれて、学習への意欲や集中力も増してきたように感じます。

こういうのは資料に残しては伝えられないなぁ、、

20110606

七月の桜


サマイパタの市制記念日でのデスフィーレ(行進)の一幕。
    先日、新聞の一面を飾ったサンタクルス市長ルーベン氏の姿も。



先週末、訪れたサマイパタ。
同じサンタクルス県にあり、市内から乗り合いタクシーで2時間半。
サンタクルスからはサンファンよりも近い距離にありながら、景色も気候もがらっと変わる。

バジェ(谷)地方特有の、湿気のないからっとした気候は、この地が避暑地と呼ばれる所以。
山の斜面にぽつぽつと立ち並ぶ別荘。サンタクルスの富裕層にとって一種のステータスシンボルとなっているようだ。

また、外国人移住者の数も多く、イギリス、フランス、ドイツ、ノルウェー等々、非常に国際色が豊かだ。以前バジェグランデで出会ったホセ・ルイス(親切なラモス)も、この町に「カーサ・デル・アミーゴ(友達の家)」という名の宿屋を経営している。

ここは本当にボリビアかと見紛うほど、街並みやカフェにも洗練された空気が漂う。
レストランは雰囲気も味も一級品。ちがうのは値段が安いということだけ。
季節は冬だというのに、色鮮やかな花が町を彩っている。
太陽の傾きで刻一刻と姿を変える山並みが美しい。
今回は訪れることができなかったが、世界遺産「エル・フエルテ」もこの町の魅力として付け足さねばならない。

基本的にはのどかな山間の町。
そこに、この地に惚れた人達が移り住み、少しずつ町をかたちづくっていった。


町を愛してきた者たちの中の一人に、ウエマセツオさんがいる。

写真のバックミラーで見切れているのがウエマさんである。
今回、初めてお世話になったのだが、歴代の協力隊がみな訪れお世話になっているボリビアのお父さん的存在であるウエマさん。

そして、行進途中の町の有力者たちがこぞって挨拶にくる、町の名士としての顔ももっている。
市制記念日のイベントにおいてもその力は発揮されていた。彼の一言(一押し)でプログラムが変えることができる。すごい。

でも本当にすごいのは、そんなすごさを感じさせないこと。もう本当に家族のような、そんな温かさと自然さをもって我々を迎えてくれたこと。全く人に気を遣わせることなく、むしろ自分も楽しんでいるような、そんな懐の深さで僕らを包んでくれていること。

そんなウエマさんが海外移住を決意したのは高校生の頃。アルゼンチンに移住していたおじさんの一言。

「地平線から太陽が昇り、地平線に太陽が沈む」

この殺し文句(?)に魅せられて、ウエマ青年は遠く太平洋を越え、地球の裏側まで夢を現実のものとするためにやってきた。サンファン出身の奥さまと出逢い、サマイパタに居を構える。
言葉少なに語っていたが、他の移住者の方々同様、想像を絶する苦労があったはずだ。

でも、それを感じさせない。それが一番すごい。

遠く異国に移り住み、その地で生活し、町の人々に尊敬される。
もともとあった仕事を奪うのではなく、新しく産業を起こし(または新しい技術を伝え)結果、その地をより豊かにするのであるから、これは究極の国際協力と言える。
2年間やそこらではなく、一生をかけてその国の発展に寄与するのであるから。

サンファンを始め、ボリビアにおいて日本人がある種の敬意をもって見られているのは、こうした前駆者たちの”覚悟”と”努力”があったからだ。

この国は、この町には、そういう日本人が住んでいる。

僕らはそれを、忘れてはいけない。



ウエマさんの家の庭には一本の桜の木がある。

毎年、七月頃になると桃色の花を咲かせるそうだ。

まさか、ボリビアで花見ができるとは。。

「自粛」「不謹慎」についての考察はまた後ほどするとして、

今は、ボリビアに根付いた日本人の魂。

それがささやかながら厳かに、満開の桜となって咲き誇るのだなと、桜見に想いを馳せる。


例えサマイパタから日本人ボランティアがいなくなっても

例ボリビアから日本人ボランティアがいなくなっても

ウエマさんの桜はこの地で咲き続けるだろう。


サマイパタでの任期をもう時期終える二人の先輩隊員。
町を歩くと、たくさんの人から声をかけらている。それが2年間の活動の何よりの評価だと思う。

「いい町だなー」ということは100%真実だ。でもその時、自分にとっての住みたい町はサンファンだなと改めて感じた。

だって、サンファンには待っててくれる人たちがいる。自分を必要としてくれる人たちがいる。

町を歩くと、「プロフェ!」「ヨターロ!(スペイン語アクセントで)」と声をかけてくれる人たちがいる。
そういう人たちのために働きたい。移住者の覚悟の比ではないが、今はささやかながらそう思う。

自分の町サンファンで生き、サマイパタで生きる日本人にまた逢いに行く。

桜の木のように、当たり前にそこにあって僕らをいつも見守ってくれるような、そんな存在。
そんなウエマさんの下に、仲間たちも再び集うことだろう。


また逢おう。

七月の桜の木の下で。