20110628

スタートライン

            




「国際協力」について考えてみる。


ボリビアに到着してから1年が経った今、
考えてきたことと、実際に自分が経験してきたことを照らし合わせてみたい。

その考えをここに記しておく。


まず、今までイメージしてきたような「発展途上の国を、技術的に進んだ国が援助する」という構図は、正直くずれた。

それはもちろん悪いイミではないし、この国のこの町の学校現場で感じたことだという前提を断っておく。


なんていうか、あんまり困っていない、のである。

もっと向上したい!とは思っている。実際に積極的に声をかけてくれる先生方もいる。
でも、そんなムリしてシゴト増やしてまで発展しようとは、おそらく思っていない。

わざわざボランティアを要請しているのだから、きっと現場は切迫していて、具体的に貪欲に日本の技術を吸収したい、そういうモチベーションを持っているのかなと思っていた。

言い換るとするなら、「援助する」側と「援助される」側の関係であっても、それに上下はなく、ある種対等な関係がそこにはある。
ボリビアに関して言うなら、発展はしてないけど成熟はしている。

制度や技術にまだまだ進歩や改善の余地はあるが、社会としては成熟している。つまり今のままで十分幸せだということだ。

先生たちもそれなりのペースで頑張っているし、自分たちの仕事に誇りも持っている。日本の技術を学んでやろう!という切実さはあまり見られない。みんなのんび~りやっている。(これは国民性も大きくかかわってくるのだろうが)

だから一方的に、進んだものだからと自分たちの価値観を押し付けるのは、支援の在り方としては間違っている。

そういう援助のかたちもあるだろうが、僕たちにできること、求められていることは違う。

それがいいかどうかは任地の人たちが判断することで、その良さをどのようにして伝えるかがボランティアの腕の見せ所となるわけだ。

でもそれが一番難しいわけで。
試行錯誤しているうちに1年間が過ぎ去り、、最近やっとその芽吹きを感られるように至ったわけで。。



おそらくこれは、世界中のボランティア仲間が程度の差こそあれ体験していることに違いない。

もちろん例外はあるだろう。

でも、肩の力ががくっと抜けるような、そんな感覚を経験した人も多いに違いない。

そんな中で、「自分は何のためにここにいるのだろう」「自分がここにいる意味をみんな知らない」そういう自問自答を繰り返す日々もあるだろう。

先日の最終報告会では、実に多くの先輩隊員がこの言葉にふれていた。

でも実は、その問いに達することが一つのスタート地点なんじゃないかと思う。
もともと、自分の能力を100%発揮できるような、受け入れ環境なんてあるのだろうか?

もちろん日本にだって、ない。

誰だって現場に立ち、厳しい環境にさらされながら経験を積み、己の専門性や技術を高めていく。その過程には「自分は何のために、、」の問いを繰り返すこともあるだろう。時には自分をコロし、その中で最大限自分を生かす術を磨き、そうやって社会に責任を果たしていく。

ボランティアは遊びではない。

それ故、前述したものと同等の覚悟が必要である。
100%組織がおぜん立てしてくれて、うまくいくように手を引いてくれるなんてことはありえない。
だからそれを誰かのせいにして、自分を護るなんてことは基本的に反則である。

そういう自己完結型はサイアクである。

自分のいる意味は、やはり自分で見つけるものである。

思い出作りは簡単にできる。そういう国際交流は日々暮らしているだけで行われていく。

そして最後に楽しかった、一番ためになったのは自分だ、と笑顔で感想を述べればいい。

でも、それではだめだ。

少しでも意味のあるボランティア活動を。

国際協力は、そのスタートラインに立つことすら難しい。



書きたかったことが収まらなかったので、次回に続く~

0 件のコメント:

コメントを投稿