20110528

San Jose Obrero


          
  算数の授業。ミニ黒板を掲げる3年生のこどもたち。
 ちなみに壁の向こうは幼稚園の教室になっています。



学校紹介① ”San Jose Obrero”

まずは中心地の分校的存在、サン・ホセ・オブレロ小学校から。

そして、ほぼ毎日通っていた時期もあり、特に力を入れているところです。
なぜなら、、、今まで全くと言っていいほど活動を行っていなかったからです。。

理由は2つあります。

1つは、この学校で公開授業が行われなかった(できなかった)ということ。
もう1つは単純にオフィスから遠いということ。

2つ目については、CPが30分近くかけて歩くのいやがったためで、往復を考えると気持ちは分からないでもありませんがそこは!ガンバリどころです。わざわざ来てくれている感が出るので、歩いてでもいくメリットは大いにあると考えていましたが。
ちなみに先生方はその半分の距離でもバイクタクシー1~2Bs.(10円~20円ぐらい)を利用しています。たまに遅刻しそうな子どもたちも普通に気軽に利用していて、途上国という定義付けの難しさを感じます。

1つ目の理由についてはまだ4周年と歴史が浅く、分校という位置づけからかほとんどが経験の浅い若い先生(20~30代)で占められているということ。校舎も大き目の部屋を2学年でシェアしていたり、外付けの仮設校舎(小屋)のようなところで勉強をしています。当然となりのクラスの声は丸聞こえ。がったがたでぼっこぼこの地面にブロックを敷き、隙間を段ボールでふさいでいるような青空教室っぷり。だからまだ見せられるような授業はできない。

「 条件が悪いから授業はできない、、、 」

日本的な発想だったら、その悪いなりにできる工夫を探そう!という思考になると思いますが、、でも、これで同じ公立校か、、というほどハード面でもソフト面でも差があるのもまた、事実です。

市長の構想では、中心地の公立校の人数を分散させるという目的もあり施設の充実・拡大を進めています。現在は現政権の援助で、2階建ての新校舎が建設されています。なぜあの広い敷地に2階建てなのか、役場の出納には超厳格(厳罰)でもなぜ入札無しで業者を選び工事が進められているのか、疑問は多々ありますが、、子どもたちと先生方は新しい校舎に希望を見出しています。願わくば子どもたちの前で堂々と語れるような透明さと誠実さが欲しいところです。


さて、
赴任当初は、研究授業のお知らせ待ちだったわけで、ほとんど訪れる機会はありませんでした。幼稚園と英語の授業を1回ずつ。それゆえ学級経営分科会が始動してからは、今までの遅れを取り戻すべく重点的に支援を行っています。

現在は、毎週火曜日(と金曜日)定期的に巡回を続けています。
なぜなら、その日は”算数”があるからです。

数学というものはすごいもので、言語を越えた普遍性というものがあります。
何語をしゃべっていようと、「1+1」という式には共通の答え「2」があります。

掛け算の思考法が逆だったり、割り算の筆算の仕方がちがったり、答えの証明法が独特だったり、もしますけど、そこには絶対普遍の共通原理があるわけです。ですから他の教科に比べて比較的、というか断然支援しやすいのです。

学級経営的な取り組みを通して、まずクラスの子どもたちとも馴染むこと。算数の理解状況の把握、副担任的に支援、授業の助言、教具・指導法の紹介、模範(一つの例としての)授業というように段階を追って技術支援を行っています。この流れは基本的に他校のパイロットクラスでも同じです。

このクラスのサラ先生は落ち着いた感じのしっとりした授業が持ち味です。紹介した教具を取り入れて実践してくれたり、自分なりの工夫が見られるところが良いです。写真のミニ黒板ですが、生活指導のチェック表の記入欄に「セロテープを貼ると、水性マジックで書いたり消したりできるよ」とアドバイスしたら、次に行った時にはミニ黒板を使って授業をしていました。計算のフラッシュカードなども取り入れてくれ、支援のしがいがあります。

最初は学級目標を子どもたちの願いから考えることから始めました。幸い教室が共用でないので、入り口の脇に大きく掲示してあります。教室に入った時に、子どもたぼそっとその言葉を諳んじているのを見ると「しめしめ」、、いや、「よしよし!」と思います。

みんなの願いを実現するのが、教室です。

教室をきれいに使おうということなどを教え、ゴミを床に捨てない、掃除をする等々、、

現在は隣りの幼稚園の楽しそうなオベンキョウの声と、裏手のカンチャ(運動場)からの音楽がうるさく、中々集中して取り組むというのは難しい状況ですが、その悪条件を差し引いても学級経営はかなりうまくいってるんじゃないかなと感じます。

ですので、学級経営と並行して授業改善も進めています。模範授業というかたちで算数の授業をもたせてもらっています。3年生ですが、掛け算の意味を理解していない(教わっていない)ので、お皿にのった果物の数に始まり、掛け算の意味を考えることから始めて、、考える授業に慣れていないせいか、当然日本と同じような流れにはなりません。でも、

具体的な物で問題を提示 → 問題文 → 図に表す → 立式 → 計算 → 答え

日本のやり方を伝えるのが責務ですが、そのやり方がここの子どもたちに思考に添うかどうか、そして現地の社会にフィットするものかどうか、頭を悩ませるところです。。

ですが、この一連の流れを通して、計算の技術を身につけるということ以外の力を育みたいと思考錯誤しています。だって九九はおろか、繰り上がりのある足し算も数えなきゃできないのに、計算の方法だけ機械的に学んでいってもイミがないのですから。

それは機械にだってできることです。人間にしかできない力を育んでいくことが大切です。もちろん、技術と思考はバランスの問題です。

授業は一番やりがいがある、と感じる半面、難しさも日々実感しています。毎日授業をやっている人たちはやっぱりすごいなぁ。


ここの子どもたちは、市街地のはずれにあるせいか、人懐っこいボリビアっ子に輪をかけて、さらに人懐っこいです。遠くからでも姿を見つけると、わーっと走ってきて歓迎してくれます。他の学校でも似たような雰囲気はあるのですけど、ここは特につよいです。「わーめずらしーガイジンがきたぞー」みたいな感じなんでしょうきっとw

以前ここの学校でも活動を行っていた病院勤務の先輩隊員が、特に印象に残っているといっていました。子どもたちも彼女のことを覚えていました。

そういう過去とのいいつながりがあるから、こうやって今のやりやすさがあるんだぁと改めて感じます。もちろん逆の場合だってあるでしょうから、僕の任地はかなりいい関係を築いてきたと言えます。

そういうバトンは、しっかりと受け継ぎ、つないでいきたいものです。

活動については、継続してお伝えしていきます。

20110526

ココロノイロ







「 こころの色 」 



私が何を思ってきたか

それがいまの私をつくっている


あなたがなにを考えてきたか

それがいまのあなたそのもの



世界はみんなのこころで決まる

世界はみんなのこころで変わる



あかんぼうのころは白紙

大きくなると色にそまる


私のこころはどんな色?

きれいな色にこころをそめたい


きれいな色ならきっと幸せ

すきとおっていればもっと幸せ






以前担任していた卒業生に贈ったことのある、谷川俊太郎さんの詩だ。

若干ベタな感じもしますが、、彼の言葉は哲学が感じられるから、すきだ。


子どもの頃は、世の中には正解があって、そういうものは学校とかテレビとか周りのオトナたちがちゃんとそういうことを教えてくれるもんだと思っていた。そういうもんだとばかり思っていた。

教科書に載っていることも、新聞やニュースで報道されていることも正しいことで、そういうものをもらさず受け止めて、染まっていくこと。それが世界の真理に近づくことだと思っていた。

当時はもっと純粋に、もっと無条件に受け入れていた。きれいな色に染まることが、価値のあることだと思っていた。

絶対的なイロがあって、それに染まっていくことが幸せであると信じていた。


でもそういうものは実は幻想であって、絶対的な価値観など存在しないということにやがて気付く。

何が”きれい”かということだって、一つのものの見方にしか過ぎない。
すべては物事の一つの側面でしかないこと。

”フツウ”であることが、実は”フツウ”ではないということなのだろう。



だから、なるべく人と違う方向を向き、人とちがうことをやっていれば基本的にまちがいないと思っていた。最初は単純に性格的なものやファッション的なものもあったと思う。

でもそうやって同じイロに染まらないようにしていたつもりでも、鏡のように”フツウ”を見立てているわけで、自分がそのイロを意識し、じわじわと染まっていたことに気付いてしまう。最近特に、自分の価値観やら行動規範やら何やら。自由でいるつもりでいても、やっぱりどっぷりとニホンジンに染まっている。いい意味でも悪い意味でもそう。

でも、そういう自分だから衝突することも受け入れることもできるわけで、自分を知るってことが大切なんだと改めて感じる。

自分を知ることが世界を広げることになり、世界を知ることが自分を知ることになる。

自分が変わると、世界が変わるということはうそではないと感じる。

こういうことは真理と言っていいのかもしれない。

昔の人の言っていることはやっぱりすごい。短い言葉でずばり核心をついている。
どちらが先か、という問題ではなくどちらも同時並行的に進んでいくのだろう。


話を戻すが、きれいなイロなんてのは相対的に価値づけられているだけのものである。今はきれいなイロに染まることよりも(そのことはシンプルに幸せであると言えるのかもしれないが)、世の中に存在するできるだけ多くのイロにふれてみたい。

その結果、きれいなイロに染まっていなかったとしてもいい。いまさら透明には戻れないだろう。そういうイロの混沌の中にこそ、価値を見出していきたい。今、必要とされる力はそれかな、と思っている。



曇り空の切れ間に、陽の光が差し込むように

混沌としたイロの中に一瞬現れる、光をみつけたい

南風が冬の到来を告げた今日の空は

どんよりとした雲が幾重にも重なっていた


妻から、東京の空が送られてきた

「きょうのソラ、きれい。きょうのカゼ、きもちいい。」

梅雨を通り越し、夏の到来を予感させる

さわやかな夕焼け空だった

ココロは、時間も空間も越える



なんと、、、今回で投稿が100回目であったことに気づく、、

相当な筆不精だった自分ですが、キセキ的にもここまで続いた理由を考えてみると、

毎回、自分のことを書いているようでも、必ず誰かの顔を浮かべてかいていたということだ。

家族、日本の友達、同期の仲間、、(それが不特定の対象になることもあったが)、「誰かに伝えたい」そういう意志の元で書き綴った文章であったことに気付く。

それがその人(人たち)の元に届いているかは分からない。でも、キモチというものは伝える対象があって始めてベクトルになるのだなと感じる。だれかに見せることを前提としていない日記とは、その点が決定的にちがう。こういうことは作文の授業で、大切にしていきたい。

そういうモチベーションで100回。

というわけで、みなさんどうもありがとうございます。

写真は、雨上がりの赤土の大地。水たまりに写った太陽。
混沌の中に宇宙を感じてしまった瞬間。

今回は、しばしばでも、たまたまでもここを訪れてくださった全ての方々に贈ります。

今後ともよろしくお付き合いください。


                                           敬具。

20110525

学校へ行こう



この後、犬も一緒に教室にゴールイン、、!!

きっと一緒にベンキョウしたいのでしょう笑





JICAのボランティアを受験する際には、数ある要請(こんなボランティアにきてほしい!という、現地からの要望)の中から、自分で選んで希望を出すことができます。もちろん、必ずしもその希望の通りいくというわけではないのですが、「学校配属」で何にもないような町で、子どもや村の人たちとのんびり向き合っていきたいなぁ、ぐらいに漠然と考えていました。

だから、学校配属の情操教育で、英語圏で、独り任地で、さらに海があったらいいなぁと、今思えばえらく不純な動機です。だから、本音はどこでもいいと思っていました。

  自分を選んでくれる = 必要としてくれるのであれば

基本的には、世界中どこであっても本当に大切なことは変わらないはず。だから、国も場所もどこでもいいと思っていました。社会状況や多少の方法論は違っていても、普遍的な教育哲学というのは変わらないはずですから。
現実には、自分のイメージしていたところとは、かなりちがった場所への派遣となりました。やがて、自分を「必要としてくれる」なんて考えはおこがましいことにも気づくことになるのですが。

でも今は、教育事務所勤務であることがむしろ良かったと感じています。そして、日系人社会がすぐ側にあることも、自分に多くの示唆を与えてくれる結果となりました。もちろん、日本人に親切だとか食材が豊富だとか表面的なことだけでなくてです。


多様なものにふれられること。そして、自分自身を見つめなおす機会を与えてくれること。

この2点において、このシゴトは最高にエキサイティングです。



、、、抽象的なことばかりでなく、具体的なことも書かなきゃな。。



まず、サンファン市内の小学校の概要を簡単に。
活動先である学校(現在11校)の様子を紹介していきます。

市中心部のサンファン学園(半公立・半私立)をのぞき全て公立校となります。

赴任時は高校もということでしたが、対象を小学校にしぼるということで8年制のコレヒオ(来年から6年まで)とイニシオの2学年(就学前教育・幼稚園)への巡回指導を行っています。

◎が当初の対象校。〇がその後に対象を広げたものです。



<サンファン市中心部> …ボリビア第二の都市サンタクルスより乗り合いタクシーで3時間。

◎サンファン学園    …日系人の子どもたち(全校の1/3)が通う。
〇キンデル・サンファン …サンファン学園に併設された幼稚園。
〇サグラド・コラソン1 …幼稚園。午前と午後の部に分かれ、施設を共用。
◎サグラド・コラソン2 …午後に校舎を使用。午前の部とは施設を共用。
◎サグラド・コラソン3 …午前中に校舎を使用。午後の部とは   〃  。
◎サン・ホセ・オブレロ…市街地のはずれに位置する分校的な存在。新校舎建設中。


<エンコナーダ村> …中心地より30km、乗り合いタクシーで約30分。(タクシーをつかまえるのに約30~90分)

◎ラ・エンコナーダ …集落の中心校。分校の子はここの高校に進級。
〇ロス・アンデス  …集落の南に位置する集落にある分校。複式の2学級。
〇トレス・デ・フニオ…集落の北に位置する分校。複式の3学級。
〇グアダルキビル …集落の西北に位置する分校。複式1学級。雨季は訪問不可。


<アヤクチョ村> …エンコナーダ村よりさらに10km、さらに15分。電気はここまで。

◎マリスカル・アヤクチョ …集落の中心校。幼稚園から高校までを併設。




それぞれの学校には、それぞれの個性があります。公教育といっても、その質には大きな違いがあるということです。ですので課題も、必要とされている活動も、先生のモチベーションも学校によって、クラスによって様々です。聞いてはいましたけど、改めて実感しています。

ちがっているから面白いところもあり、まじめに捉え過ぎるとがくぜんとしてしまうこともあり、刺激たっぷりの毎日です。

現在は中心地の5校、6教員を対象に学級経営の分科会を作り、それぞれのクラスで状況を見ながらできることを考え地道に。2学期に入り算数を中心に授業改善にも力を。といったところで、やっと活動が動き始めたかなぁといったところです。

テーマは、"voluntariamente y gradualmente" です。

”自発性”と、”じわじわ”と浸透させていくことを大切にしていこう、ということです。

赴任11ヶ月を振り返ると、けっこうたくさんやってきたようで、実はそんなにやっていないような、、発表で活動にイロを付けることはできます。ただ、本当に意味のある支援というものは、もっとずっと地味なものです。でもそういうものこそ大切にしていきたいと今は考えています。

最初はけっこう大きいことを考えていましたが、いいイミで「できること」と「できないこと」が分かってきました。なんて言うか、どちらが白でどちらが黒かという問題じゃないということです。

本当に必要な支援とはいったい何なのか。

やりたいことが増え、できることも増えてきた半面、常に問われることです。

・自分のやりたいこと
・任地で望まれていること
・自分にできること

この三つの重なる部分に、答えがある。4月の分科会での専門家の方のお話です。

中々その見極めは難しいところです。


当初の活動計画と、今やっていることとは、随分と離れてしまったように感じます。基本路線は同じでも枝葉の部分がだいぶ。


今の答えは、コドモたちが変わること。
笑顔が増えること。元気になること。やさしくなること。

そして、先生が変わること。
子どもたちの成長に喜びを感じること。教師としての自分をさらに成長させたいと思うようになること。

さらに、オトナが変わること。
学校に対する関心や愛着が増すこと。子どもたちの未来に責任をもつこと。

国の未来に希望をもつこと。


ちょっと規模が大き過ぎますが、そういう場面に少しでも出会えるように日々がんばっているわけです。

そういうことはやっぱり強制されるものでも教わるものでもなく、自分の経験として獲得していくものです。それが理想であるなら、やっぱり理想を追っていきたい。


教育ってやっぱり大事だなぁと思う、今日この頃。

自分はベンキョウはきらいでしたが、学校はすきでした。だから今も先生をやっているみたいな。でも、今はベンキョウはすごく大事だと思っています。





学校はいい。


みんなが笑顔になれるような、そんな学校を創りたい。


明日、明後日と、奥地の学校へ。じわじわ広げてきます。

20110523

親切な外国人




「なんだ、、親切なガイジンかと思った」



親切なガイジンとは、僕を指してである。

先週の出来事。
とある商店のレジで精算を待っていた時のこと。

先に並んでいた1世(日本人移住者1世)の方が、購入したペットボトルのふたを開けるのに苦労していたので、「手伝いましょうか、、?」と声をかけ、ボトルを手にし力づくでこじ開ける。若干こぼれたが、、よし。何とかかっこはついた。初めて会った人同士でもこうやって助け合うというのが、この国に根付いている習慣である。

するともう一人、ABJ(日本ボリビア協会)の方がやって来て、「ボランティアで来てます~」なんて自己紹介をして、しばらく3人で話していると、「なんだ日本から来たボランティアだったのね」と最初の一言。

自分のことをまだご存知じゃなかったということはいいとして、けっこう流暢に日本語しゃべってたと思いますが、、!?「顔立ちが、、」と弁明されていましたが、、実はスペイン語がカタコトな外国人と見ているということでしょうか、、?それとも、日本語があやしくなってきてるということでしょうか、、!?

今日は買い物中、店のおっちゃんと話していたら「ブラジルから来たのかい、、?」
やっぱりスペイン語のカタコト感でしょうか。。自信をもってしゃべってるけど、若干おかしいみたいな。思いっきり「NIHONJIN」と書かれたTシャツ(原宿の某スポーツショップで購入)を着ていたのですが。。スペイン語発音で「ニオンヒン」と呼んでしまったのでしょうか、、




サンファンでハタラキ始めてから、もう10ヶ月が過ぎようとしている。

この町に住んでいると「〇〇人」という定義というか境界線が、実に不確定で曖昧なものだということを実感させられる。(ひょっとしたらそんなものはただの便宜的なものでしかないのかもしれないが)


あえて”日本人”と”ボリビア人”、そして”日系”という言葉を使って比較すると、、

①日本で日本人の両親から生まれ、日本で育った自分
②日本で日本人の両親から生まれ、ボリビアに移住して50近く過ごしてきた日系1世
③ボリビアで日本人の移住者の両親から生まれ、ボリビアで育った日系2世3世
④ボリビアで日本人移住者と現地のボリビア人の間に生まれ、ボリビアで育った日系2世3世
⑤ボリビアでボリビア人の両親から生まれ、ボリビアで育った人。

①と⑤は、いままでの概念で消化できる。

「〇〇人」というのは、両親の国籍で決めるとするのであれば、日本人とボリビア人の境界線は③と④の間ということになる。そして国籍を選ぶ段階では、④も日本人と定義できる。

一方、生まれ育った場所で決めるとするのであれば、境界線は一つ上にあがり②と③ということになる。言語や文化への帰属を重視するとするのならば、この線引きは自然に受け入れられる。

3世の若者は日本語もスペイン語もどちらも流暢に使いこなす。日本語で言えば、漢字の読み書き等は苦手とする人もいるようだが、まったく違和感がない。ひょっとしたら僕らが気付けないだけで、スペイン語にも同様のものがあるのかもしれないが。ただ、今の小学生たちの現状としては日本語の力がどんどん衰えているようで、国語教育から日本語教育への転換がさけばれている。

日本人的な文化の継承も行われていて、日本よりも日本的な文化が残されている。伝統舞踊や習字など、東京の小学生よりも遥かに慣れ親しんでいる。ただ、生活レベルではボリビア的であるといえる。ただ、ボリビア人のそれともまた少しちがうが、日本人のそれとも若干ちがうようにも感じる。言葉は堪能でも日本で働いた時にうまくなじめないケースがあるのは、そういったところに一因があるのかもしれない。

日本人移住者とその子弟のことを”日系人(NIKKEI)”と表現することがあるが、この言葉はむずかしい。彼らは日本人であって、ボリビア人でもあるからだ。”日系ボリビア人”という呼称も好まない。かといって、”日本人”と呼んでしまうことも難しい。地元のボリビア人たちと一線を画すような感じになってしまう。だから未だに、総じて呼ぶ時になんて言っていいか迷ってしまう。

サンファンの、、日本人?、、ニッケイ人?、、サンファン人??、、ボリビア人、ではないかなぁ


いつもお世話になっているお宅の娘さんは、「自分は何人だと思う?」と問われ、少しなやんだ後、「ボリビア人かなぁ」と答えたそうです。

今隣りに住んでいるのは、2世の父親とホンジュラス人の母親の間に生まれた男の子2人の家族だ。「ヨータローセンセー」と呼んでくれるが、それ以外の日本語ではコミュニケーションがとれない。

いったい誰を、どのような定義を用いて、ナニジンと表現すればいいのだろう、、?

日本から移住地に嫁いでくる方もいる。これからはどんどん混ざってもっとボーダーレス化は進むだろう。

最初に記した「親切なガイジン」発言も、「だと思った」ということから、僕を日本人とは見ていなかったということなる。日本人であることを意識すらしていなかった自分自身も、この国ではその他大勢の外国人である。この国にいればいっぱしのガイジンなのだが、それが日本人でなかったとしたなら自分はいったい。。

どうやら、それを表現すること自体が意味をなさないというような、そんな事態に今、直面しているようだ。日本でも実際に同じような事態に遭遇したことがあるが、「〇〇人」であるといったり「〇〇人」でないといったことは、あまり感じづらいことだろう。


もう10年以上になってしまうのだが、大学生になったらまず一人旅をしようと目論んでいた。日本を飛び出し世界を旅したいという思い。それはもう衝動に近かった。日本の枠から飛び出すこと、日本人であることの縛りから解き放たれたいということ。中学生の時のホームステイの印象が刻まれているのか、おそらく何か自由になれるような気がしていたのかもしれない。日本人を超えた何かに。

ただそれ自体が幻想であり、現実には、皮肉にも自分を以前よりも深く日本人以外の何者でもない、と感じさせる結果となった。バンコクのバックパッカー宿でも、セビーリャの公園のベンチで昼寝をしても、タンジェのメディナで飯を食らっても、ユーラシア大陸の果てに立っても、自分は世界を旅するだけの一人の日本人に過ぎなかった。世界に憧れるくせに、自分は日本のことを何もしらなかった。いや、それ以前に自分自身のことさえ知らなかった。


法律の枠組みで縛るのは簡単だ。いやむしろそれが唯一の方法であるかもしれない。


でも、本当はもっともっと曖昧でぼんやりとしていて、でも心の奥にしっかりと刻まれているような、そんな魂の記憶が呼び起こすものであるのだと思う。


「”日本人”とは?」

その問いに今、答えられるとしたら、、5月21日(土)の情景。

先輩ボランティアのSさんの集大成とも言えるべき、ディサービスの交流会がサンファンで開かれた。サンファン、サンタクルス、オキナワ、3つの移住地から集まった1世の方々。

「ふるさと」

Sさん率いるハーモニカ楽団の演奏に涙する1世の方。。

ボリビアには、「ふるさと」に歌われているような山河は存在しない。50年近く前の、心の風景を想い浮かべて、メロディを口ずさむ。そのかなしげで切ないような表情。

ブラジルの日本人会では、しめの定番となっているようだ。


「日本人」とは。その問いに対する答えはここにあるような気がする。




集合写真はその時に撮ったもの。

Sさんの人望にひきつけられ、多くのボランティアスタッフに支えられた中での一日。
ここには、日本人も日系1世も2世も3世もボリビア人も写っている。でもそれはあまり重要ではない。一人ひとり顔のある人間であり、一つの思いを共有できたからだ。

レンズをのぞきながら感じたのは、一人ひとりの顔。彼らは日本人移住者でもなければ、日系1世でも2世でもない。それぞれが激動の人生を背負い、歴史をもった一人の人間。地球の裏側に離れたふるさとを想い、未開のジャングルを切り拓いてきた名前のある人間。それで十分だし、それ以上の説明は不要だ。



「日本人」と強く感じた日でもあり、「〇〇人」のカテゴライズとかどうでもいいやと強く思えた日。

それぞれのルーツや文化を持ちながらそれを尊重し合い、そして何かもっと大きなくくりで一つになれる瞬間。


まずはサンファンで、
そして、国が違うと思わされるぐらい多様なボリビアで、
自分のささやかな歩みが未来につながっていくと信じて、
朝が来る度、親切な外国人は、また新しい一歩を踏み出す。

そうやっていつか、世界が一つになる日を夢見て。

20110514

希望だけ





” 希望だけはあった ”



たまたまネット上で、ジブリの新作のニュースが出ていたので、
誘われるようにホームページにとんでみる。

企画のための覚書と題した、宮崎監督自身の言葉の中にあった、特に印象的な言葉。
物語の舞台となる東京オリンピック前年、1963年の日本の様子についての記述である。
以下、引用。

「1963年は東京都内からカワセミが姿を消し、学級の中で共通するアダ名が消えた時期でもある」

「貧乏だが、希望だけはあった」


東京にそんなきれいな川があったっけ、、?と思うと同時に、、なんでしょうか。村上龍が小説『希望の国のエクソダス』で描いたような終末の日本とのコントラスト。

彼の語っていた言葉も印象的だ。

「 この国にはなんでもある。ただ、希望だけがない。 」

成長期の日本を支えたのは、全ての労力と才能と人格を捧げた名前のある人々。
僕らは無条件に、その恩恵にあずかっている世代でもある。

日本は経済的に豊かであるのかもしれない。いや、豊かです。もうこれはほんとすごい。
しかしその全てを捧げた結果が、人間的な幸せとは必ずしもイコールで結ばれないことに、実はもう気付いてしまっていて。もちろん批判なんかできる立場ではなくて。でも、

モノを手に入れることでは、満たされない心。
見せかけのブンカにふれたって、満たされない心。
作り物のアイではもう、もう満たされない心。
見せかけだけのヒトダスケでは、もう満たされない心。


さらに監督は続ける。

「 新しい時代の幕開けであり、何かが失われようとしている時代である。 」

僕らはきっと、失われたことにさえ気づかないでいるのだろう。
むしろ最初からないのだから失ったことにはならない。それが自然の状態だということになる。
そうやっていつしか普通になって、また一つの時代の空気となる。


子どもの頃は、サッカーボールが一つあれば。いや、それさえなくたって日が暮れるまで笑って過ごしていられた。学校で少しいやなことがあったって、明日は常に新しい希望に満ちていた。

明日は常に、新しい希望で溢れていた。もちろん根拠なんてない。

そういう類の無条件の”希望”

「何かを失うこと」

が、オトナになるということだとしても、そういう「希望」で明日を満たしていきたい。
例え何かを失うことになったとしても、本当に大切なものを捨てることなんてない。


バブル崩壊後の”失われた10年”のさらに10年後。

僕たちが生きる今には”希望”の灯がともっているのだろうか、、?

次の新しい価値は、僕らが創っていかなければならない。
被災地から届くニュースでは、学生ボランティアの意識の高さがよく伝わってくる。
「最近の若い者は、、」なんてもう言えない。。

今、日本に何か変化が起きているのだとしたら、、

新しい灯をともす。ささやかでもいい。一人ひとりの手で。

どこかでそれを落としたのならまた拾えばいい。
それを失くしたのならまた創り直せばいい。
そうやって前に進んでいけばいい。

今は必要なのは、”希望だけ”



追記。

日本にいる仲間から、3月9日にオンエアされ、一時自粛となっていた九州新幹線の前線開通のCMが送られてきた。そこに描かれていたのは、まぎれもない”希望”であった。これはわざとレトロな感じに仕上げたということもあるだろうが、想像する1960年代のそれそのものであった。成長を喜び発展に夢を託す。今はそう単純に行かないのだろうが、そこに写されていた人々の笑顔は、無条件の喜びと希望に満ちていた。そういう笑顔を眺め、日本に残してきた家族のことを想う。