20110523

親切な外国人




「なんだ、、親切なガイジンかと思った」



親切なガイジンとは、僕を指してである。

先週の出来事。
とある商店のレジで精算を待っていた時のこと。

先に並んでいた1世(日本人移住者1世)の方が、購入したペットボトルのふたを開けるのに苦労していたので、「手伝いましょうか、、?」と声をかけ、ボトルを手にし力づくでこじ開ける。若干こぼれたが、、よし。何とかかっこはついた。初めて会った人同士でもこうやって助け合うというのが、この国に根付いている習慣である。

するともう一人、ABJ(日本ボリビア協会)の方がやって来て、「ボランティアで来てます~」なんて自己紹介をして、しばらく3人で話していると、「なんだ日本から来たボランティアだったのね」と最初の一言。

自分のことをまだご存知じゃなかったということはいいとして、けっこう流暢に日本語しゃべってたと思いますが、、!?「顔立ちが、、」と弁明されていましたが、、実はスペイン語がカタコトな外国人と見ているということでしょうか、、?それとも、日本語があやしくなってきてるということでしょうか、、!?

今日は買い物中、店のおっちゃんと話していたら「ブラジルから来たのかい、、?」
やっぱりスペイン語のカタコト感でしょうか。。自信をもってしゃべってるけど、若干おかしいみたいな。思いっきり「NIHONJIN」と書かれたTシャツ(原宿の某スポーツショップで購入)を着ていたのですが。。スペイン語発音で「ニオンヒン」と呼んでしまったのでしょうか、、




サンファンでハタラキ始めてから、もう10ヶ月が過ぎようとしている。

この町に住んでいると「〇〇人」という定義というか境界線が、実に不確定で曖昧なものだということを実感させられる。(ひょっとしたらそんなものはただの便宜的なものでしかないのかもしれないが)


あえて”日本人”と”ボリビア人”、そして”日系”という言葉を使って比較すると、、

①日本で日本人の両親から生まれ、日本で育った自分
②日本で日本人の両親から生まれ、ボリビアに移住して50近く過ごしてきた日系1世
③ボリビアで日本人の移住者の両親から生まれ、ボリビアで育った日系2世3世
④ボリビアで日本人移住者と現地のボリビア人の間に生まれ、ボリビアで育った日系2世3世
⑤ボリビアでボリビア人の両親から生まれ、ボリビアで育った人。

①と⑤は、いままでの概念で消化できる。

「〇〇人」というのは、両親の国籍で決めるとするのであれば、日本人とボリビア人の境界線は③と④の間ということになる。そして国籍を選ぶ段階では、④も日本人と定義できる。

一方、生まれ育った場所で決めるとするのであれば、境界線は一つ上にあがり②と③ということになる。言語や文化への帰属を重視するとするのならば、この線引きは自然に受け入れられる。

3世の若者は日本語もスペイン語もどちらも流暢に使いこなす。日本語で言えば、漢字の読み書き等は苦手とする人もいるようだが、まったく違和感がない。ひょっとしたら僕らが気付けないだけで、スペイン語にも同様のものがあるのかもしれないが。ただ、今の小学生たちの現状としては日本語の力がどんどん衰えているようで、国語教育から日本語教育への転換がさけばれている。

日本人的な文化の継承も行われていて、日本よりも日本的な文化が残されている。伝統舞踊や習字など、東京の小学生よりも遥かに慣れ親しんでいる。ただ、生活レベルではボリビア的であるといえる。ただ、ボリビア人のそれともまた少しちがうが、日本人のそれとも若干ちがうようにも感じる。言葉は堪能でも日本で働いた時にうまくなじめないケースがあるのは、そういったところに一因があるのかもしれない。

日本人移住者とその子弟のことを”日系人(NIKKEI)”と表現することがあるが、この言葉はむずかしい。彼らは日本人であって、ボリビア人でもあるからだ。”日系ボリビア人”という呼称も好まない。かといって、”日本人”と呼んでしまうことも難しい。地元のボリビア人たちと一線を画すような感じになってしまう。だから未だに、総じて呼ぶ時になんて言っていいか迷ってしまう。

サンファンの、、日本人?、、ニッケイ人?、、サンファン人??、、ボリビア人、ではないかなぁ


いつもお世話になっているお宅の娘さんは、「自分は何人だと思う?」と問われ、少しなやんだ後、「ボリビア人かなぁ」と答えたそうです。

今隣りに住んでいるのは、2世の父親とホンジュラス人の母親の間に生まれた男の子2人の家族だ。「ヨータローセンセー」と呼んでくれるが、それ以外の日本語ではコミュニケーションがとれない。

いったい誰を、どのような定義を用いて、ナニジンと表現すればいいのだろう、、?

日本から移住地に嫁いでくる方もいる。これからはどんどん混ざってもっとボーダーレス化は進むだろう。

最初に記した「親切なガイジン」発言も、「だと思った」ということから、僕を日本人とは見ていなかったということなる。日本人であることを意識すらしていなかった自分自身も、この国ではその他大勢の外国人である。この国にいればいっぱしのガイジンなのだが、それが日本人でなかったとしたなら自分はいったい。。

どうやら、それを表現すること自体が意味をなさないというような、そんな事態に今、直面しているようだ。日本でも実際に同じような事態に遭遇したことがあるが、「〇〇人」であるといったり「〇〇人」でないといったことは、あまり感じづらいことだろう。


もう10年以上になってしまうのだが、大学生になったらまず一人旅をしようと目論んでいた。日本を飛び出し世界を旅したいという思い。それはもう衝動に近かった。日本の枠から飛び出すこと、日本人であることの縛りから解き放たれたいということ。中学生の時のホームステイの印象が刻まれているのか、おそらく何か自由になれるような気がしていたのかもしれない。日本人を超えた何かに。

ただそれ自体が幻想であり、現実には、皮肉にも自分を以前よりも深く日本人以外の何者でもない、と感じさせる結果となった。バンコクのバックパッカー宿でも、セビーリャの公園のベンチで昼寝をしても、タンジェのメディナで飯を食らっても、ユーラシア大陸の果てに立っても、自分は世界を旅するだけの一人の日本人に過ぎなかった。世界に憧れるくせに、自分は日本のことを何もしらなかった。いや、それ以前に自分自身のことさえ知らなかった。


法律の枠組みで縛るのは簡単だ。いやむしろそれが唯一の方法であるかもしれない。


でも、本当はもっともっと曖昧でぼんやりとしていて、でも心の奥にしっかりと刻まれているような、そんな魂の記憶が呼び起こすものであるのだと思う。


「”日本人”とは?」

その問いに今、答えられるとしたら、、5月21日(土)の情景。

先輩ボランティアのSさんの集大成とも言えるべき、ディサービスの交流会がサンファンで開かれた。サンファン、サンタクルス、オキナワ、3つの移住地から集まった1世の方々。

「ふるさと」

Sさん率いるハーモニカ楽団の演奏に涙する1世の方。。

ボリビアには、「ふるさと」に歌われているような山河は存在しない。50年近く前の、心の風景を想い浮かべて、メロディを口ずさむ。そのかなしげで切ないような表情。

ブラジルの日本人会では、しめの定番となっているようだ。


「日本人」とは。その問いに対する答えはここにあるような気がする。




集合写真はその時に撮ったもの。

Sさんの人望にひきつけられ、多くのボランティアスタッフに支えられた中での一日。
ここには、日本人も日系1世も2世も3世もボリビア人も写っている。でもそれはあまり重要ではない。一人ひとり顔のある人間であり、一つの思いを共有できたからだ。

レンズをのぞきながら感じたのは、一人ひとりの顔。彼らは日本人移住者でもなければ、日系1世でも2世でもない。それぞれが激動の人生を背負い、歴史をもった一人の人間。地球の裏側に離れたふるさとを想い、未開のジャングルを切り拓いてきた名前のある人間。それで十分だし、それ以上の説明は不要だ。



「日本人」と強く感じた日でもあり、「〇〇人」のカテゴライズとかどうでもいいやと強く思えた日。

それぞれのルーツや文化を持ちながらそれを尊重し合い、そして何かもっと大きなくくりで一つになれる瞬間。


まずはサンファンで、
そして、国が違うと思わされるぐらい多様なボリビアで、
自分のささやかな歩みが未来につながっていくと信じて、
朝が来る度、親切な外国人は、また新しい一歩を踏み出す。

そうやっていつか、世界が一つになる日を夢見て。

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