” 希望だけはあった ”
たまたまネット上で、ジブリの新作のニュースが出ていたので、
誘われるようにホームページにとんでみる。
企画のための覚書と題した、宮崎監督自身の言葉の中にあった、特に印象的な言葉。
物語の舞台となる東京オリンピック前年、1963年の日本の様子についての記述である。
以下、引用。
「1963年は東京都内からカワセミが姿を消し、学級の中で共通するアダ名が消えた時期でもある」
「貧乏だが、希望だけはあった」
東京にそんなきれいな川があったっけ、、?と思うと同時に、、なんでしょうか。村上龍が小説『希望の国のエクソダス』で描いたような終末の日本とのコントラスト。
彼の語っていた言葉も印象的だ。
「 この国にはなんでもある。ただ、希望だけがない。 」
成長期の日本を支えたのは、全ての労力と才能と人格を捧げた名前のある人々。
僕らは無条件に、その恩恵にあずかっている世代でもある。
日本は経済的に豊かであるのかもしれない。いや、豊かです。もうこれはほんとすごい。
しかしその全てを捧げた結果が、人間的な幸せとは必ずしもイコールで結ばれないことに、実はもう気付いてしまっていて。もちろん批判なんかできる立場ではなくて。でも、
モノを手に入れることでは、満たされない心。
見せかけのブンカにふれたって、満たされない心。
作り物のアイではもう、もう満たされない心。
見せかけだけのヒトダスケでは、もう満たされない心。
さらに監督は続ける。
「 新しい時代の幕開けであり、何かが失われようとしている時代である。 」
僕らはきっと、失われたことにさえ気づかないでいるのだろう。
むしろ最初からないのだから失ったことにはならない。それが自然の状態だということになる。
そうやっていつしか普通になって、また一つの時代の空気となる。
子どもの頃は、サッカーボールが一つあれば。いや、それさえなくたって日が暮れるまで笑って過ごしていられた。学校で少しいやなことがあったって、明日は常に新しい希望に満ちていた。
明日は常に、新しい希望で溢れていた。もちろん根拠なんてない。
そういう類の無条件の”希望”
「何かを失うこと」
が、オトナになるということだとしても、そういう「希望」で明日を満たしていきたい。
例え何かを失うことになったとしても、本当に大切なものを捨てることなんてない。
バブル崩壊後の”失われた10年”のさらに10年後。
僕たちが生きる今には”希望”の灯がともっているのだろうか、、?
次の新しい価値は、僕らが創っていかなければならない。
被災地から届くニュースでは、学生ボランティアの意識の高さがよく伝わってくる。
「最近の若い者は、、」なんてもう言えない。。
今、日本に何か変化が起きているのだとしたら、、
新しい灯をともす。ささやかでもいい。一人ひとりの手で。
どこかでそれを落としたのならまた拾えばいい。
それを失くしたのならまた創り直せばいい。
そうやって前に進んでいけばいい。
今は必要なのは、”希望だけ”
追記。
日本にいる仲間から、3月9日にオンエアされ、一時自粛となっていた九州新幹線の前線開通のCMが送られてきた。そこに描かれていたのは、まぎれもない”希望”であった。これはわざとレトロな感じに仕上げたということもあるだろうが、想像する1960年代のそれそのものであった。成長を喜び発展に夢を託す。今はそう単純に行かないのだろうが、そこに写されていた人々の笑顔は、無条件の喜びと希望に満ちていた。そういう笑顔を眺め、日本に残してきた家族のことを想う。
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