サン・ホセ・オブレロ。休み時間の一コマ。
みんなで長縄飛びにチャレンジ。秋晴れの空が心地よい。
みんなで仲良く、、と言いたいところだが、実際はそんなに甘いものではない。
一番苦手なのは順番を待つこと。一列に並んで待つなんてことができない。
特にこの学校の子たちは、ハングリー精神満載である。
「一人でとびたい。。だってその方がとびやすいから。」
人を押しのけてでも自分の我を通す。
ここボリビアでは主張しなければ、その意見も存在も埋もれる。
悪い例では、ストやブロケオ(道路封鎖)をすると主張が通るという体たらく。
でも子供たちに関して言えばそれはむしろ悪い意味ではなく、そうやってみんなたくましく生きている。競争や順位をつけたがる社会性も関連があるだろう。
でも、そうやって一人で遊んでいる時、周りのみんなはどうしているか、、考えたことはあるかな、、?
始めはきっと応援してくれるかもしれない。すごいねぇって感心もしてくれるだろう。
でもそのうちこう思うようになるだろう。
「〇〇ちゃんはわがままだ。」
そういう目線を浴びながら得られる楽しさは、心からのものだろうか。
それに気づいてすらいなければ幸せと言えるのだろうか。
みんなで遊んで、みんなで笑った方が、きっと何倍も楽しい。
そういう大切なことも、学校で学ぶのです。
どうもわがまま(ハングリー)っ娘が多いので、その辺の金物屋で買った縄を、1週間の約束でクラスに貸した。先生にも意図を伝え、「みんなで遊ぶためにプロフェが貸してくれたんだよ!」と日常的にフォローしてもらう。
うまくいかないことからもたくさん学んでほしい。
大人の手を介さずに、自分たちで考え悩んで笑顔になれる方法を見つけてほしい。
途中、管理が悪かったので久々に本気モード(の演技)で叱った。できれば使いたくなかった手だがやむをえない。
失敗しない方法を教えるんじゃなくて、失敗から学ぶ方法を教えたい。
そういう経験やそうやってできた仲間は一生ものだから。
しばらく後に訪れると、みなが「ソガソガ」言ってくるのでなんだと思ったら
「ソガ("soga")=なわ」
あぁ長縄か、、!
「みんなで飛ぶ練習をしている」 「他の学年の子とも一緒に遊んでいる」
救いの手を差し伸べてくれるのは神様だけ、ではない。
困ったときに手を差し伸べてくれるのは、周りにいる仲間たちだ。
作るのではない。気が付けば傍にいる。そういう一生ものの仲間を作ってほしい。
わがままだと思われる子は、うまくベクトルを変えてあげると周りを引っ張る存在になれる。
そういうことを伝えるのも、立派な技術支援ではないかな。
地味ではあるけど、日常的になんだオレ先生っぽいかもってこともやってます。
子供たちの人間関係があったまるにつれて、学習への意欲や集中力も増してきたように感じます。
こういうのは資料に残しては伝えられないなぁ、、
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