16/01/2011, la ciudad de Uyuni, Cementerio del tren
何かを判断する時、
「そのヒトではなく、
そのヒトの行っていること」
を見なければいけない。
誰々がやっていることだから、良いとか、良くないとか。
誰々のやっていることだから、仕方ないとか、許せないとか。
そういうフィルターは、物事の本質を曇らせる。
例えば、
あのヒトの言うことは間違いない、ってヒトがいたとする。
でも、そうではなくて、間違いないことをいい続けてきたから、
あのヒトの言うことは間違いないという信頼を得ている訳で、
順番が逆になっている。
もしくは、途中で目をつぶっている。
その理由は、その方が楽だから。きっとそれだけだろう。
新聞やテレビなどの情報を信じるのも、基本的には同じ構造だ。
でも大抵は間違ってなんかいないし、そう大きくはずすことはない。
ただ選ぶことを放棄しているのであり、それは考えることを放棄するのと一緒であり、
考えることをやめたニンゲンなんて、、、もはやただのアレである。
例えば、
お互い何を言ってもやっても、もう揚げ足を取り合っているとしか思えないような、
そんな反応しかできないくなってるヒトたちがいたとする。
それは多分、どちらも正しくて、どちらも少しだけ間違っている。
過去に決定的な、(それとも一方的な)何かあったのだろうな。
それは議論の中身がどうこういうよりも、人と人との関係性のこじれである。
だから、理論的風な正論を隠れ蓑にしているうちは絶対に解決はない。
そんな状態でどちらかが謝る、なんてことはあり得ない。
ていうか、どちらかが折れるくらいなら、そもそもこじれてなんかいない。
例えば、
あのヒトの書いた記事だから、
あのヒトのプロデュースだから、
あのヒトのブランドの新作だから、
あのヒトが立ち上げた会社だから、
あのヒトの書いた小説だから、
あのヒトの言ったことだから、
、、、それが本当に良いモノか。
それは自分自身で確かめなければいけないことであり、
そのための秤を磨いておくことは怠るべきではない。
それでも、自分の主観を完全に拭い去ることなんてできないだろうが、
そう言えるだけの秤を自分の中に持ちたい。
いいものはいい。
よくないものはよくない。
ヒトを見るときは、そのヒトが今何を成しているか、今どこへ向かっているか、
そういうところを見るようにしてきた。
それは今も昔も変わっていない。いや、
昔に比べるとだいぶ寛容になってきたとは思うが。
だから尊敬するヒトに先輩も後輩もなく、残念ながら軽蔑するヒトに先輩も後輩もない。
そういう風にありたいし、自分自身もそういう目で見られて構わない。
あのヒトのやることだから、で許されてきた部分もある。
その年にならないと分からないこともあると思うが、
分からないなりに相手に伝えられることも、そのヒトの力ではなかろうか。
棚にあげず。自ら出る杭を打たず。優しいココロをもつ。
この線路を辿り、どこまで行くのか。
いや、むしろ線路すら頼りはせず、自分の足で道を選んでいくのだろう。
相棒はいつだって、傍にいるのだから。
As you stand, Stand by me, So...
El camino hasta el futuro
以上。