20150208

誰のものでもない花










ある幼い兄弟の話。




「 生まれてくる妹に、花束をプレゼントしたい。

しかし、彼らの知っている花は全て、

誰かが植えて、誰かが育てたような花ばかりだった。

誰かの花を摘んでしまっては、誰かが悲しむ。

だから、誰のものでもない花を探しに、幼い二人は出発する。

迷いながら辿り着いた目的の場所。

しかし、そこでも誰のものでもない花は見つからなかった。 」



結局、家族に捜索依頼を出され、パトカーで連れ戻され、

しこたま怒られる、という話である。






昨日、桜が咲いているというウワサを聞いて、その場所に行ってみた。

そこには、ほぼ満開の花を咲かせている河津桜が。

日没前ではあったが、薄桃色の花びらが空に透き通る。




目を向ければ四季折々に、絶え間なく草花が芽吹いていると、以前書いたが、



誰に世話をされているわけでもなく、

誰に愛でられることもなく、

誰に知られることもなく、

季節のスイッチが切り替わるがごとく、新しい白や黄色やピンクが目の前を彩る。



誰のものでもない花が、ここにはたくさんある。



しかし、よくよく考えれば、すべての土地は誰かの所有地であり、

そこに生えているものは、育てていなくても誰かのものであるんじゃないか。


でも、やはり、それは誰かのものじゃない。

言い換えれば、それは自然の大きな仕組みの中にあり、

その大きな力の一部である。

「誰のものでもない花」ではないが、それは「誰か」のものではない。

すべての存在や価値に意味があり、その意味の一つ一つが世界を形作っている。





河津桜は、植えてくれた方の桜である。

だけど、誰がいつ来て、のんびり眺めてもいいように、

手製のベンチやブランコ(new!!)が設置されている。

そういう意味では、みんなのための花、「誰のものでもない花」であると言えるのかな。

島で地の植物以外を根付かせるのは、大変難しいことなのだそうだ。

みなの潤いのために、心遣ってくださることが嬉しい。





実は、幼い兄弟は知ることになる。

この世の中には、誰のものでもない花なんてないことを。

しかし同時に、みんな誰かのものであることを。



すべては私たちのものになり、すべては私たちのものでなくなる。




もう時期、なだらかな丘の斜面や遠くの山肌に、山桜の白と薄緑がほころぶ。

その美しさに気付き立ち止まった時、それは私のものになる。

桜の木の下まで辿り着ければ、隙間から空を仰いでみよう。

そして、立ち去る時、その桜は誰のものでもなくなる。




内地の桜とは違った、ささやかで儚い白と薄緑のコントラスト。




桜見の季節は、もうすぐそこだ。



教え子たちの新たな旅立ちも、すぐそこです。