ある幼い兄弟の話。
「 生まれてくる妹に、花束をプレゼントしたい。
しかし、彼らの知っている花は全て、
誰かが植えて、誰かが育てたような花ばかりだった。
誰かの花を摘んでしまっては、誰かが悲しむ。
だから、誰のものでもない花を探しに、幼い二人は出発する。
迷いながら辿り着いた目的の場所。
しかし、そこでも誰のものでもない花は見つからなかった。 」
結局、家族に捜索依頼を出され、パトカーで連れ戻され、
しこたま怒られる、という話である。
昨日、桜が咲いているというウワサを聞いて、その場所に行ってみた。
そこには、ほぼ満開の花を咲かせている河津桜が。
日没前ではあったが、薄桃色の花びらが空に透き通る。
目を向ければ四季折々に、絶え間なく草花が芽吹いていると、以前書いたが、
(「「シキオリオリ」、「花屋の店先にならばない」)
誰に世話をされているわけでもなく、
誰に愛でられることもなく、
誰に知られることもなく、
季節のスイッチが切り替わるがごとく、新しい白や黄色やピンクが目の前を彩る。
誰のものでもない花が、ここにはたくさんある。
しかし、よくよく考えれば、すべての土地は誰かの所有地であり、
そこに生えているものは、育てていなくても誰かのものであるんじゃないか。
でも、やはり、それは誰かのものじゃない。
言い換えれば、それは自然の大きな仕組みの中にあり、
その大きな力の一部である。
「誰のものでもない花」ではないが、それは「誰か」のものではない。
すべての存在や価値に意味があり、その意味の一つ一つが世界を形作っている。
河津桜は、植えてくれた方の桜である。
だけど、誰がいつ来て、のんびり眺めてもいいように、
手製のベンチやブランコ(new!!)が設置されている。
そういう意味では、みんなのための花、「誰のものでもない花」であると言えるのかな。
島で地の植物以外を根付かせるのは、大変難しいことなのだそうだ。
みなの潤いのために、心遣ってくださることが嬉しい。
実は、幼い兄弟は知ることになる。
この世の中には、誰のものでもない花なんてないことを。
しかし同時に、みんな誰かのものであることを。
すべては私たちのものになり、すべては私たちのものでなくなる。
もう時期、なだらかな丘の斜面や遠くの山肌に、山桜の白と薄緑がほころぶ。
その美しさに気付き立ち止まった時、それは私のものになる。
桜の木の下まで辿り着ければ、隙間から空を仰いでみよう。
そして、立ち去る時、その桜は誰のものでもなくなる。
内地の桜とは違った、ささやかで儚い白と薄緑のコントラスト。
桜見の季節は、もうすぐそこだ。
教え子たちの新たな旅立ちも、すぐそこです。