教師は「教えること」のプロである。
そして同時に「学ぶこと」のプロであるべき。
野菜嫌いな八百屋さん。
動物が苦手な飼育員さん。
子どもがうっとおしい保育士さん。
正義を憎む警察官。
国の未来に興味のない政治家。。
八百屋さんぐらいならまだいい。ちゃんと商売してくさえくれれば。
でも対象が、生き物や人間となってくると話が変わってくる。
もちろん、そんなに好きでなかったとしても(例え大好き!とは言いはばかるとしても)、ネガティブな感情が足を引っ張っていては、続かないし、向上もしない。きっとつらいんじゃないかな。逆のモチベーションというのもあり得るが、こと教育に関してはきっぱりと否定したい。なぜなら、教育の根底には”愛”があるからだ。人間愛とでもいうべきか。
人を信用できない人に、人を育てることはできない。
そういった”愛”のない人はやめた方がいい。きっと他にもっと向いている場所があるはずだ。その人の資質を生かせるような。すみません。だれかを批判しているわけではないです。自戒というか、願望をこめて。。
ぼくははっきり言って学校の勉強は好きではなかった。
「学ぶ」喜びを教えてもらっていない、と思っていた。今思うとそうとう傲慢な子どもだ。
こんな子クラスにいたらやりづらいだろう。
でも、そのうち気付いた。その「喜び」は自分で見つけるということを。
教師や仲間ができるのは背中を押すこと。でも一歩踏み出すのは自分の意志でしかない。前へ進んでいくのも自分自身の力。最初はやらされることもある程度必要だろうけど、結局、自分で火をつけるしかない。
話を戻す。
”学ぶことの喜び”を伝えられなければ、教師として失格、とまでは言い過ぎか。力不足ということを自覚しなければならない。全ての技術や教材は、それを伝えるための「手段」でしかない。
いつもお世話になっている、SVのS(U)さんの言葉。
「”知らない”ということは不幸。”知る”ということは幸せ。
どちらを選ぶかはその人の自由ということ。
知った上で選ぶ、選ばないは個人の判断であり、権利である。」
学ぶとは究極、世界を”知る”ということであり、自分の世界を広げる、ということ。
知識とは灯台の灯のように、世界を照らす一筋の明かり。
ひょっとしたら”知らない”ということも幸せなんじゃないか、、と迷うこともある。
世界を知らない限り、自分たちは幸せだと信じ続けていられるかもしれない。
教育の本当の「目的」とは。
まだまだまだまだ、迷いがある。何かを押し付けられるのはキライだし、押し付けるのはもっとキライだ。
ぼくはまだ、世界を知らない。
ぼくはまだ、自分自身を知らない。
だから、もっと知りたい。もっと自分の世界を広げたい。
齊藤孝(さん。当時は助教授)。大学でお世話になりました。
彼の最初の授業で、
「学ぶとは、憧れのベクトル」ということを掲げていた。
より高いところに向かって、情熱と憧れをもって進んでいる一本の矢。
その姿に憧れ、またそれに寄りそうように自分もまた、一本の矢になる。
彼らしいロマンティコな表現です。が、確かに自身が闇を切り裂く一本の矢であった。
何より、授業が抜群におもしろかった。
こういう授業をしたい。そういう類の憧れ。それが「学び」の始まりなのかもしれない。
ベクトルは時に向きを変え速度を変え、でも最終的に目指すところは変わることがない。
そういう姿を、教師は示すべきだ。
映画「GO!!」のラストシーンで、父親役の山崎努が言ったセリフ。
「世界は広い。まずはそれを知り、そして後は自分で選べ。」
それを言えるような、存在でありたい。いや、そうなりたい。
勉強はあまり好きじゃない。でも”学ぶ”ことは、やっぱり楽しい。
そこに向かって進んでいけばいんじゃないか。
今はそう思っている。