20120131

ブログ炎上






協力隊として海外で生活をしていると、インターネットは非常に貴重な情報源となっている。

ただ便利な反面、メール等も含めて、その関わり方に難しさを感じることがある。



以前、「 読んでも絶対にためにならないブログ 」と冠してあるブログを見つけたことある。

確かにそこに書いてある記事は、極端な視点から書かれていて、時に表現が過激で不快な気分になるものも多かった。

でも、「読んでもためにならない」「読まなくていい」と銘打ってあるのだから、あぁその通りだなと思った。そういう言葉に騙されて読んでしまった自分が悪い

つられてしまった自分の責任だ。




インターネットは情報を能動的に選び取る場であるので、メディアリテラシーというのでしょうか、自ら情報を取捨選択し活用していく能力が必要となってくる。

「ためにならない」ものは、切り捨てる。

むしろ、極端に右左に偏った情報にも敢えて目を通す中で、選ぶ能力、捨てる能力を身に付けることが大切なのだろう。



例えば、僕がそのブログに「あなたの考えはおかしいです」的な書き込みをしたとする。

そのブログの管理人も反論をしてくるだろう。
 お互い顔が見えない中でのギロンは、ほぼ100%過激化する。
 時間をかけて正論を練り上げたり、感情のみで押し切ったり、、非常にみにくい。

ブログ、チャット、メール、掲示板等々、、ネット上でやり取りされるギロン(口論)が建設的な結末を迎えないことは周知の事実である。

互いに視点や思考回路、利益とするところが違うし、言語のみでの上滑りのギロンとなるから当然の結果だろう。

徒労。と、いうより元々そんな書き込み等する必要がない。


もしそういうことでお困りの方がいたら、積極的に無視することをお勧めする。

相手には非があり、自分には理がある。
ただ、相手にも理があり自分にも非がある。

そういうことを言語記号のやりとりで済ますことの虚しさを感じる。

どうせ結論は出ないし、何か違うことに打ち込んだ方がよほどいい。

お前は神か。バーカ!とか言ってはいけない。

見なきゃよかったって思うこともあるけど、能動的にかかわっている自分の責任でもある。

見ない、気にしない、特に関わらない、でいい。



短い言葉で相手を最大限傷つけたり、自己弁護のために饒舌な理論を駆使したり、そういうスキルに長けた住人達。自分の感情や、自分の利益に固執した人たち。

どうしても大きい声を出した人の意見に左右されるような傾向があるので、そういう人たちが何となく得をしているような、そんないびつな感じ。

例えばごく少数の保護者の意見(時に 苦情)で、学校が左右されてしまうことがあるように、何となく悲しい世の中です。

しかも、アンケートなどで過激な意見を書いてくる人は、ほとんどが匿名であることは見逃せない事実だ。

本当に筋の通った意見であったら多少過激なものであっても、自分の顔と名前を出して堂々と訴えるべきことであろう。

特に声を荒げない大多数の人は、賛成かどちらでもいい、もしくは興味がないといったところか。





本来、批判とは相手のためを思って、もしくはその関係性を向上(改善)させるためになすべきことであって、自分の利益を認めさせるためのものではない。

例えそれが余計なお世話であったとしても、それが相手のためになっているかが重要になってくるのだろう。


それが相手にとって受け入れ難いものもあるだろうし、伝え方が十分でないこともあるだろう。

かつてこのブログ内で、そういう批判めいたものを書いたことがあるが、積極的に無視してくださっていたとしたら、自分よりよっぽどオトナなんだと思う。

何よりもそれを真摯に受け止めてくれた方は、ほんとにウツワが大きい。

その時は少しはすっきりした。でもそのやり方が一番だったかはわからない。


でも一つ分かったのは、何かを批判する時には、同時に自分もきずつくということだ。

厳しい意見を言う。いい過ぎたかな、悪かったかな、もうしわけなかったな、、そういうセンサーが働いている限りは大丈夫な気がする。

それを直接伝えられたらさらに一歩前進だ。


ただ、そのセンサーがバカになった人は無敵だろう。絶対にまけない、が実は相対的には負けている

積極的に無視している人たちにとっては自明のことだから。




youtubeで否定的なコメントを載せると集中攻撃をされる(だったらマイナス評価なんてなくせばいいと思うが)のはおかしいと思うけど、その心情は分からなくもない。

「ためにならないブログ」は、一般の人では許されるが、協力隊のような公的な立場では許容され難いといったようなこともある。

ケース・バイ・ケース。やはり一般論では語れない。






匿名であっても筋の通ったものはいいし、顔出しで主張したとしても筋の通らないものはそれほどの価値は見出せない。

結局はそういうことか。




 弱い立場の相手やその弱みを敏感に察知し曝け出す攻撃性
頭を下げた相手の頭をさらに足蹴にするような傲慢さ

匿名の傘に隠れて全くの正論を説くような欺瞞

自分が善であることを疑いすらしないような絶対善に潜む悪意

自分のことはすっかり棚に上げそのことを億尾にも出さないような態度



これは惨い。第一卑怯だ。

「 恥を知れ 」 この一言ですべてに片が付く。




少なくとも何か意見を言う時は、自分の顔と名前に責任を持っていたい。

以上。



※ このエントリーは実際の出来事、または特定の個人を想定して書いたものではありませんし、特定の何かを誹謗中傷する目的で書いたわけでもありません。こんなことあえて書くこと自体、残念な感じですが。ちなみにこのブログが炎上したということもなく、いつも温かく見守ってくださることに感謝です。

2 件のコメント:

  1. 情報は「欲しい情報が勝手に入る時代」に突入するらしいでー。アルゴリズムとSNSとビックデータで。

    もはやあらゆる「ハコ」の意味が希薄になる。
    (なくてはならないと思うけどね)

    そうなるとココに書いてあったような話も
    淘汰されてくんやろうね。

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  2. そういうことを社会の進歩というのかは判りませんが、
    人間としては退化ということなんでしょうかね。

    ただ、そういう時代に生きる自覚と覚悟だけは必要なんでしょう。

    isaoくんがしらーっと投げる一石、結構すきですー^

    CarlitoとかJoseとかコムニダ行く時の運転手(名前忘れた)がよろしくと言ってたよ。
    San Juanは、San Juanのままに。

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