20110318

千羽鶴はいらない





昨日の全国紙の一面を飾ったのは、放射能測定を行っている赤ちゃんの写真だった。
ここボリビアにおいて、日本の地震についての人々の関心は、おそろしく高い。

気を使ってか、仕事をしているとみんな傍に来て地震の話をしていく。
基本陽気なカンバがシリアスな感じで。



同様に世界中の友達(たった一度旅先で出会っただけの)からも、引き続き日本へのメッセージが届いている。心が温まる。

被災者応援のメッセージ写真や、映像を作ってキモチを届けようとしている仲間もいる。

"facebook"上に立ちあげられたボランティアグループでは、「今できること」について盛んに議論が行われている。ただ、自分たちがやりたい、というだけでなく、被災地の方や日本の状況はどうか、本当に意味のある支援は何か、活発な意見が飛び交っている。

自発的な動機に支えられた活動であるということ、実際に活動に移すことを想起して具体的に話し合いを進めていること、そして生きた情報の共有。「天命」だ「天罰」だと悲劇を訳知り顔で語るだけではない。会をリードしてくださっている方も、行方を見守っている方も、自らで動いている方も同等に、新しい未来への一歩を踏み出している。世界に散らばった仲間が共に力を合わせば、24時間連続して作業し続けることができる。想いをつなぐバトンは世界を巡る。これはすごい。




 今の自分が、できること。



昨日、巡回指導先の集落の学校で、複式学級の先生方を対象にした研修を行った。

その中で少し時間をもらって、日本の地震の話をした。

被害の状況、人々の助け合い、被災下での行動、日本の家族からの話、世界中から寄せられる祈りの言葉、それに対する感謝、人と人との絆の強さ、等々。

話している途中、何人かの先生方の目がうるんでいることが分かった。
技術重視で想像力を育むことが欠けていると言われる教育、個人主義と言われるこの国の人々、、なのに、地球の裏側の出来事に対して心から悲しみ悼むことができる。何かと場当たり的でテキトウとか思うけど、そんなボリビアの人たちがすきです。

30分で着く距離を2時間半以上かかっちゃうような交通網しかなかったとしても、

月曜のフットサルで突然キャプテンマークを渡された理由が、集まりが遅いことへのイエローカードを押しつけるためだったとしても、

カウンターパートが前夜に酒を飲むと、決まって仕事を休むとしても、、

やっぱり、この国の人たちすきだなぁ。
この人たちと、この国と、子どもたちの笑顔のために働いていきたい。そう思う。



   鶴を折りながら話をする。  願いを込めながら鶴を折る。


日本に送りたいのは、鶴ではない。実際、仲間の書き込みで、「千羽鶴はいらない。今は日常品が不足している。」とあった。その通りだ。もうちょっと落ち着いたらありがたいと思うだろうが、切実に必要なものはもっと他にある。何かを送るときには、受け取る相手の願いや状況をよく見極めなければならない。


鶴を折りながら学ぶのは、「人と人とのつながり」

まるで一つの教室の中で起こったできごとのように、世界はやさしさでつながっている。


「真剣な表情と笑顔、どっちがいいかな」

「日本を元気づけるなら笑顔の方がいい」

彼らは想いをこめた鶴を手に、満面の笑みを湛えた。それが笑顔の理由。



 今の自分だから、できること。


大きなプロジェクトでもない。整った構図もない。日常の頑張りの延長線上にある一枚。
ただ、今の自分にしかできないこと。先生たちに平和の種を蒔くこと。
持って帰った折り鶴を眺めた時に少しでも思い出してほしい。日本のこと、地震のこと、今日のこと。


日本を励ますために、メッセージをたくさん集めて送る。

”誰でもいいから”ではなく、ちゃんと話をして、日本のことや自分の国のことを考えて、想いを募る。
「誕生日を祝いたいから、誰でもいいからメッセージをください」ではない。
よくわからないがメッセージを書いて写真に写る。プロジェクトやキャンペーンのために、協力を依頼するのではない。見栄えのいい写真がたくさん集まったらそれはいいだろうが(実際は心がこもっているかどうかなんて写真からは判らないが)、誰かにボランティアを押し付けるようなことだけは避けたい。
目的と手段が入れ替わらないように。


小さな授業を通して、学校教育の質が少しでも向上すること。
小さな授業を通して、今の日本で起きている変化を世界に伝えること。

この国の未来を育てるために、今自分ができること。


授業の最後に、子どもたちにも伝えてほしいと結んだ。
それは「悲劇」としてではなく、「助け合い」や「やさしさ」を学ぶために。



「日本に戻ってボランティアをするぐらいなら、その飛行機代を寄付してほしい」

その考えにも同意できる。

もちろん家族や地元が被災した方なら話は別だが、今一度自分の活動を見直したい。
今ここにいる意味。与えられている立場。自分に求められていること。
青春の休暇を過ごすためでも、思い出を作るためでもない。自分の願い。


「特に何もせず冷静に日常通り過ごすことも、被災者を支援することになり得る」


自分の日常を今までより少しでも真剣に。やれることを変わらず頑張っていく。まずはそれありき。
言葉が足りないなら今よりもっとやるしかない。必要とされていないなら、必要とされることを探し、必要とされるようにあらゆる手を尽くす。決して言い訳をしてはいけない。
特に協力隊が仕事をしなかったら、それは税金のムダ遣いということ。
それは間接的に日本を苦しめていることになりませんか?

今この文章を推敲している時間ですらそう。常に自分を省みながら。

それプラス今、自分のやりたいことを実現させていく。


今、「千羽鶴はいらない」のだとしたら、、

考え過ぎると動けなくなるのは常。故に地味だけど、今日も水を撒き続ける。

20110314

サクラ掲示板




東日本大震災

現時点で死者1527人超の発表

町が丸ごと消えてしまった跡

未だ行方不明者多数

原発の危険性

日本観測史上最大の地震

家族や友人の無事を確認し、安堵するのと同時に

まだまだ広がる被害の甚大さに、胸がいたむ


”祈る”


と、言葉に出すのは簡単だし、それだけなら誰にでもできる。

”考える”ことは簡単ではなく、それをずっと”考え続ける”ことはさらに難しい。

そして、それを実際に”行動に移す”ことが、一番重要なことのように感じる。

何より独りでは難しいこと。仲間と共に築き上げていくもの。


"facebook"には 、「青年海外協力隊 日本の被災者に何かしたい」というグループが立ち上げられ、活発な情報交換や意見交換が行われている。ベナン派遣の同期隊員のように、現地の人からの応援メッセージを公開し、日本を勇気付けている人もいる。受け手のことを考え慎重に考えを練ることも、まずは行動に移すことも、どちらもすごい、マジで素晴らしい。真のボランティア精神のなせる技ではないか。


地球の裏側にいて届いてくる情報は、何もセンセーショナルな衝撃映像だけではない。
被災下の日本人の振る舞いについて、各国の反応が寄せられている。(以下、記事を抜粋)




『 天災が起きた最初の瞬間から日本の政府、民間人が見せた冷静で秩序だった行動に、改め て日本の民度の高さを感じた。
 その特長を列挙すれば以下のような点が挙げられる。「地震後もパニックはなく治安はよかった」「メディアはプロフェッショナルで不安を煽るようなことはなかった」「手抜き工事が原因の被害は伝えられていない」「政府の危機対処は落ち着いている」「情報を公開し、外国の救援隊を拒むこともない」。日本人が見せた民度の高さと災害への対応能力。世界に与えた印象はとても強いものとなった。』 



『数百人が広場に避難していたが、その間、誰もタバコを吸うものはいなかった。そこで毛布やお湯、ビスケットが与えられ、男性は女性を助けている。3時間後、人々は解散したが、地面にはゴミ一つ落ちていなかった。一つもだ。



どちらも、中国の方発の投稿で、驚きと敬意を持って紹介されていた。経済的な指標ではない、もっと大切なもの。これからの世界でもっと価値のあるもの。意識の高い人たちはちゃんとそれに気付いている。



ニューヨーク・タイムズでは、元東京支局長だった方のコラムを掲載し、
『阪神大震災時の取材で、崩壊した商店街で略奪がほとんどなかったことや、支援物資の奪い合いが生じなかった事例を紹介している。「我慢」という日本語を引き合いに「日本人の忍耐力や冷静さ、秩序は実に高潔だった」と説明し、「今後、それらが示されるだろう」』と期待を寄せている。

 

病める時、困難に陥った時にこそ、人間の真価が問われるとするのなら、今の日本人の姿は、世界に誇れるものではないか。そう感じて止まない。



『不屈の日本』(米紙社説)


『がんばれ、日本。がんばれ、東北』(英紙1面~7面まで震災報道)




両紙とも記事の中で、地震大国日本の技術力と災害に対する「備え」をたたえている。日本は経済が低迷し、政治の迷走にほとんどの国民は当惑しているが、決して自信を失くすべきではないと、エールを送っている。



元気がなくなっていると言われている日本だが、これだけの規模の天災から国を守る技術と富をすでに持っていること。そして何よりも、窮地において助け合う人々の姿。日本は必ず立ちあがる。それは、他の国の方から指摘されるまでもなく、自分たちで自覚すべきことなのではないか。


いや、それは日本の方々が一番感じていることなのだろうから、これ以上は口を慎みたい。



地下鉄の構内にある、なんの変哲もない掲示板。何気なく目に留まって写した一枚。
受験生の母親と年頃の娘。なんでしょう「必須~」って。。品薄だったのでしょうか。
目に見えないストーリーを想像してしまう。


なんだろう。あたたかい。




今、日本中の掲示板には、世界中からのあたたかいメッセージが寄せられている。


悲しいニュースもあるでしょうが、満開の桜に心が華やぐように、色とりどりの花でその掲示板を埋め尽くしたい。






世界中からの支援部隊が日本に駆け付けている。
その映像がとても温かい。
日本が地道に続けてきた国際協力の輪が、こういうかたちで還ってきているのだと思うと胸があつくなる。これから先、また立ち上がり、世界の国々を助けられるような、日本をそんな国にしたい。


今、まずできることは、、


その掲示板に一輪の花を捧げること、ぐらい。





日本中はもうすぐ、サクラの季節を迎える。


今年も同じ、満開のサクラ咲け。






20110312

祈り、誇り、そしてエール




 
地球の裏側で記録的な大災害が起きたその時、夜中の2時。

時差-13時間。

ここまでキョリを遠く感じたことはなかった。


初めてそれを知ったのは、集落の子どもが言った”ocho punto nueve”である。
すなわち”8.9”(実際は8.8?)
このニュースは瞬時に地球の裏側の電気ぎりぎりのこの小さな村にまで駆け巡った。
旅先で知り合ったアルゼンチン人の友達達から、安否を気遣うメールが来た。

「まだボリビアにいるか日本にいるか分からないが、あなたとその家族の無事を祈る」

職場の仲間は既に知っていた。世界に衝撃を与えたニュース("mala noticia")。

仲間が"facebook"に、電車を待つ人々の写真をアップしていた。
互いを思いやり、列を尊重し、信念を持ち、ただ待ち続ける姿。
人は病める時、窮地に立たされた時、その真価が問われるとするのなら、
日本人であることに今、誇りを持ちたい。

私たちが誇りに思うべき”日本”の良さは、おそらく経済的な成功や高度な技術なのではないのかもしれない。

今はただ、家族の安否を気遣うと共に、すべての方々のために祈りたい。


病める時、窮地に立たされた時、真価が問われる、本当の愛が問われる。

黄色いTシャツを着ていなくたっていい。今、日本は”愛”に包まれていますか?





活動について少々。地道なシゴトを続けております。


3月11日(金)

朝、7時。奥地の集落への巡回のためにTRUFI(乗り合いタクシー)乗り場へ。
サンファン中心地から30kmの距離にある、comunidad"La Enconada"までは、車さえうまくつかまえられれば約30分の道のり。ただ、30分待ち当たり前、1時間は覚悟しなければならない。

ただそこで、待つ。

運良く訪れたタクシーと交渉して、無事に"La Enconada"(ラ・エンコナーダ)の小学校へ。

今日はその集落の分校である、"3 de junio"(6月3日)と"Los Andes"(ロス・アンデス)の2校へ、複式学級の授業観察へ行った。1週間後には、もう一校の"Guadarquivil"(グラダルキビル)を加えて、授業の成果と課題、複式学級の在り方、日本の実践についての研修会を行う予定になっている。複式学級については門外漢だが、調べれば調べるほど身に染みるのは、日本の教育はやはり継承文化であるということ。先達の先生方の実践と研究の積み重ね。決して錬金術などはない。



はい、これも要請外で対象校外、PROMECA外の活動です。が、現地の校長先生を始め先生方が切に望んでいること。そして、教育技術の支援という意味では、通常学級の先生方にも参考となる示唆を多く含んでいることもあり、喜んで引き受けました。実際ここだけの話、カウンターパート(現地人の仕事上のパートナー)を通さない方が計画も活動もスムーズにいくことがよくあるのです。


以下、授業観察記録。
基本的にいい点のみを観て、授業後に先生に伝えています。もっとこうやっていれば、、という点はもっとよくするための改善点という趣旨で伝えています。最近は、困っていることを先に聞いて、それにアドバイスするというかたちもとっています。(オールスペイン語で、、animo Yotaro)


(〇…良かった点、△ …改善できる点、?…疑問点、→…考察・改善点)

【 3 de junio"(6月3日) 】

< 3~4年生、体育「バスケットボール」…ドリブルの基礎 >
〇規律が全体に行き届いている。挨拶、爪のチェック等、生活指導も素晴らしい。
〇指示が具体的。"distancia de un cuadro"(1マス分開ける)等。児童への声かけも積極的でいい。
△練習開始までの流れはいいが、練習に入ったとたん流れが滞る。待ち時間が長い。練習メニューを行き当たりばったり感で組み立てている。発展性、継続性を持たせる。
△ボールが2つしかないのに、ドリブルの基礎練習は難しい。一人ひとりやるのではなく、遊びの中でその動きの感覚をつかめるようにしたい。
△炎天下で1時間ぶっ通しの運動はきつい。集中力を持続させるために間に給水(休憩)をはさむなどの工夫が欲しい。その際には、水の摂り方や時間等を事前に指導することを忘れずに。

→先生はマテリアの不足(ボールが2つしかないこと)を指摘していたが、それをどう工夫し補うかが教師の腕の見せ所だろう。一人ずつ技能の練習をさせ、その間に皆が待っているのはもったいない。少ないボールで、全員が動けるような活動・ゲームを工夫する。または、持っている子はボールを持って来させる。その際には、学習のために、自分で管理を徹底。
→授業を計画する際に、教師には児童の「発達段階」の概念が乏しいように思う。児童の実態を鑑みて、どのような活動が効果的か想像することができていないということである。2~3年生の子に対して、バスケットボールを大人用のゴールに入れろ、と指示するのは現実的ではない。実際、届かない、上にすら投げられない。もっとスモールステップで。
→待ち時間が長ければ長いほど、児童の集中力が切れるのも早い。少年スポーツ指導にも言えることだが、量より質が重要。

< 0~2年生、理科「人体の名称」 >
〇実物大の人の身体の絵を描きそれを使って身体の名称を説明。児童から出てきた名称をカードに書き、図に張り付けていく。視覚に訴えわかりやすい。
△発言、離席、離室についてのルールが徹底していない。授業として成立していない。難しい。
〇英語の「サイモン・セズ~」みたいに、身体の各所を触らせていく遊びは良かった。授業の最後であったが一番集中していた。こういった遊びを多く取り入れていきたい。
△授業中の飲食は禁止すべき。かばんの置き場も指示する。椅子の背にかけるのがいいか。

→低学年についてはまず、共同生活のルール、そして学習のルールを教えるところから始めたい。聞く姿勢ができてから話す、を徹底する。
→ボリビアの教育では"inicio"として位置付けている、いわゆる幼稚園の段階の子に対しても、高学年とほぼ同様の授業スタイルで望んでいる。むしろそうでなければいけない、と言わんばかりに。今まで見てきた公立校、ほぼすべてでは、そういったかたちで授業が成立していないことがあった。まずは、発想の転換。静かに座って、作業をして、、というのではなく、遊びの中から学びを発見するような。もっと”遊び”の要素を取り入れたい。先生たちも、「教えなきゃ」ではなく、もっと楽に構えていい。



少しずつ、はしょります。

<5年生、算数「割り算の筆算」>
〇落ち着いて練習問題に取り組む。よい見本となっている。
?最終的にはこのような学習態度が身に着くのであるのなら、今の在り方もいい?
→個別学習に陥りがち。個人のスキルを高めるだけでなく、互いに交流したり教え合ったりするような学びがほしい。


授業後の休み時間、バスケをして遊ぶ。パスを教えたらちゃんと試合で生かしていた。教えればできんじゃん。ならやりましょう。でも、やっぱりゴールには届かない、、



【 "Los Andes"(ロス・アンデス) 】

<0年生、国語「アルファベット」…"A","a"の綴り / 2年生、宗教「神のお告げ」>
△0年生の子は、単純作業に完全に飽きていた。一番小さいマスに書かせていた。書き順、かたちが曖昧なので、字のかたちがとれていない子もいたので、指導の工夫が必要。
〇2年生の子たちは対照的に非常に集中して作業に取り組んでいた。
△考える授業ではなく、単純作業に陥りがち。
△授業中の飲食、離席、離室が多い。
?宗教の学習内容について。何を学習させているのか判らないことが多い。

→規律を身に付けさせることもそうだが、魅力的な授業によって教室にひきつけたい。そして、時間通りに終わらせるなど、集中力のオンとオフの切り替えもはっきりさせていきたい。
→筆記体へと発展させるのなら、書き順の指導は必要なのでは。「日本人はローマ字のかたちがみな同じでヘン」と言われたことがあるが、特に初期指導においてはかたちや書き順を教えるのは不可欠ではないか。基本を学んだ上で応用がある、個性がある。それぞれが適当に練習して習得したものを個性とは呼べない。要は、いかに効率よく効果的に学習するかである。
→個別指導の重要性。この年代の子は特に、「見てもらいたい」「ほめてもらいたい」願望が強い。こまめに巡回指導しながら、励ましていきたい。具体的な声かけの指導。


<3~5年生、図工「父の日のプレゼント」…ネクタイ作り>
〇ウレタン(以外と高いのでは??)の素材を使って、みんな楽しそうに作品作りを行っていた。
△アイデアが似通っていた(デザインがみんな同じ斜め)だったので、色んな可能性を提示し幅を広げてあげたい。内容的には、0~1年生ぐらいの作業。

→ずっと悩んでいた子に「縦はどう?」と薦めてみたら、自分でさらに工夫していた。豊かな発想を評価する授業を。上手に作るのが目的か、自分なりの工夫と気持ちをこめて作るのが目的かはっきりさせたい。


休み時間バレーボールをして遊ぶ。人数が少ないだけあって、みんな中がいい。男女で遊べるのがこの競技のいいところ。



と、いうように、毎回地味に記録を取り、先生たちへの研修用の資料へとまとめています。具体物や実践などを通して、より実感的に理解してもらおうと、工夫しています。

来週の水曜日には、これらの実践のよいところを多大に褒めながら、改善点について全体に「こういうのもいいですよー」と提案するようなかたちで、研修を進めていきたいと思っています。資料作りは、今週末が勝負かなぁ、、もう一つの奥の奥にある分校にも行けるというので楽しみです。

もう一つ奥の集落の学校では、実際に算数の指導案を立てて(スペイン語で)日本のスタイルで授業をして(スペイン語で)検討会をするという企画があります。こちらは、より実践的なので楽しみです。へたはうてません。相手のニーズに応える。これが基本姿勢です。



というように、思い出は鮮やかに、活動は地味にやっております。

地震の話を聞いた時、自分にできることを考えましたが、やっぱり今与えられたこの場所で、やれることをやれるだけやり通すしかないな、という思いにいたるわけです。

長くなりましたが、これが日本にみんなに向けたエールです。


「オレ、前見てがんばってんぞー みんなも、前見てがんばれよー!」

20110310

うさぎ32歳




「30過ぎたら、自分の顔に責任をもたなあかん」と、先輩隊員が言っていた。

人は見かけじゃないが、やっぱり外見に現れてくるものもあると思う。
人生を背中で語るというように、その風貌や顔付き、表情の作り方一つに、

その人の人生が現れる。例えば、

 胸を張って今を前向きに生きている人は、そういう貌が、
 後ろめたいこと影を背負っている人には、そういう貌が、

それなりに現れてくるということなのではないか。

つまり、自分の人生に責任を持てということか。



少し前の話になるが、都内の某私立大の学生だった時のこと。学生生協がつぶれる(つぶされる)というちょっとした騒動があった。理由は、資金面などで反体制組織と関わりがあるからだそうで、一学生としてもちろんその渦中にはいなかったので詳しいことは分からないが、ただ入学時に払った協賛金(確か5000円位)が戻ってくるという話を聞きつけ、あさましくもその現場に足を運んだのである。もちろんお金が戻ってくるなんて思っていなかったし、話の種に彼らの主張の一端でも聞くことができたらな、と言った程度の趣旨である。

結論を言う。

仮設の受付で応対をしてくれたその人(もう40歳近いだろうか)の言葉には、響くものはこれっぽっちもなかった。

「大学の批判」「お金は返す」「今は返せない」「返金を確約するものはない」でも、「必ず返す」

そこにあったのは、苦情対応のテレアポもしくは留守電のメッセージと同じような感情を介さない垂れ流しの言語であった。事情も知らない学生に話せるか、という理由も考えられるとして、一番不信感を抱いたのは、彼の顔である。

鼻毛が出ていた。それも1本2本出ていたなんてレベルじゃなく、バカボンのパパ並みに半端ない勢いでもう全力で。使い古された筆のようにも見えたそれは、全身全霊で自由への逃走を開始していた。あまりの豪快さに、これはあえてのファッション?と気が気でなく、結局話に身が入らなかったということもある。ここまで伸ばすには、たいそう時間がかかったことだろう。それだけ活動に没頭していたということか、それとも、、

友達にからかいながら指摘され、
「出てんじゃねぇよ。出してんだよ。」と言い放った漢がいる。これは男らしい。
そんな些細なことを気にしない豪快さ。天晴れ。素晴らしい。

しかし、この生協の男は少し異なるように感じた。表情、語気、目線、、
自分の顔に責任を持てない人間が、いったい社会に対してどんな主張をし、どんな責任を持てるというのだろうか。もうその時点で、こりゃムリだとあきらめた。そして、組織は消え建物は消え、想像通りというか当然のごとく返金の話も消えてなくなった。



 「ちょっとそこのあなた。かおがないですよ。」(藤原信也"memento mori")


人のことを批判する前に、まずは自分の顔を鏡で見てごらんなさい。

どんな優れた組織も、どんな優れた思想も、それを実際に生かすのは、生きた人間だ。



ストレスは感じないようでいて、周囲に批判的になる時はやばいサインかもしれない。
だから時折、自分の顔を鏡で見て軌道修正。

さしずめ自分はなんだろ。。

世の中を真っすぐに見ずに、斜め下や上から見つめがち。
いつもカッコつけて、その結果指名手配犯みたいに悪い第一印象。
笑顔で写った写真よりも、多少無愛想な方が自分らしくも思える。
割と深く多面的に考える方だが、終始そうかというとそうでもない。
恐ろしく楽天的で行動的で短絡的なところもある。

「ボリビア人みたいになってきましたねっ」ていう最近の褒め言葉。

まだいけるか、オレ。前を見て進んでいますか、、?

あっ、でもけっこう大丈夫みたいですよー^


今朝、図書館で「先生、うさぎ年ですか?」と聞かれた
理由は顔がうさぎっぽいから、、、らしい
そんな小動物顔をしているのか、、!?オレは!?

さびしくて死んじゃうぴょん、、、なんて山王の深津じゃあるまいし。。

でも、さびしさがあるからこそ、人はやさしくなれるし、

失うものがあってこそ、学ぶこともあると思ってますぴょん。


 なぁみんな

 あの時と変わらず、今を生きているかい??

20110309

限りなく透明に近い



限りなく透明に近いブルー

限りなく漆黒に近いブルー


陶酔と混沌の果てにある、限りなく澄み切った蒼の世界

冷たく暗い海の底に沈んでいくような、グランブルーの世界



欲望
不安
衝動
誰かをまもるためのうそ
自分をまもるためのうそ
事実
誤解
歪曲
嫉妬
失望
絶望
誰かがついたうそ
むしろ最初は、純粋なものでさえあったもの
もしかしたらそれは、うそですらないのかもしれない

「真実」

それが、常に事実の一つの側面としてでしか、語られないのだとしたら

そんなものは、始めからこの世に存在しないのかもしれない



だとしたらそこに 救いはあるのか?

    

限りなく透明に近いグレー

限りなく漆黒に近いグレー



澄み切った透明な世界に手を伸ばすことができるのか

深いく暗い海の底へゆっくりとその身を沈めていくのか


私たちは神ではないから

人を裁くことなどできない


ただ一つ言えるのは

「真実」はいつも自分の心の中にあるということ

 自分の心にはうそはつけない

「真実」が一生、日の目を浴びることがなかったとしても

もう一人の自分が、遠くからそれをちゃんと眺めている

世界中の誰もが知らない「真実」

客観的な情報や主観的な真実が明らかになるに連れて
徐々に可能性がせばまっていき
程度の差はあれ、やがて辿り着く一つの結論

ただ、これが明るみに出ることはないだろうし、その可否が問われることもない

それは推測であり憶測にしか過ぎない

限りなく「真実」に迫り得ることはあっても


よく、合理的に割り切って考える人のことを冷たいと言い
情に深く、考えて行動できる人を温かいと考える嫌いがあるが

必ずしもそうとは思わない

そのイタミをすべて背負いきれるか

本当の温かさとは、相手の気持ちにどれだけ寄りそえるか
刹那的な感情に流されて判断すべきではない

寄りそうべき相手が定められないのなら、客観的な立場で眺めるしかない
分かったような気になってはいけない
これは実際に生きた感情をもった人間の間に起こった、本当の出来事なのだから

社会の法で裁かれること

裁判所が罪と認めるか、それは重要なことだろうけど

それでも明らかにならない

世界中の誰もが知り得ない「真実」があったとしても、それも仕様がないことだろう



そのグレーは

限りなく透明に近いのか それとも 限りなく漆黒に近いのか



誰にもわからない方法でもいい
禁忌を犯した人間はもう後戻りはできない

自分の心に自分の手で裁きを

もう一人の自分と対峙して
本当の自分と向き合う

それすらも偽り、ねじまげようとするのなら、もうそれは


人ですらないのかもしれない



20110302

それでも




”真実”を知りたいかい?


それはいつだって
公正で秩序だっているとは限らない
現実は時に残酷で混沌の中にあって
知らない方が良かったと思うことだって きっとたくさんある



人間のもつ心の闇  7つの大罪

「虚栄、貪欲、色欲、暴食・酩酊、憤怒、嫉妬、怠惰」


人間の心に潜む深く真っ暗な淵

誰もがその淵をのぞきこむ可能性をもっている

だって、それが人間だもの

でも裏を返せば それこそが人間 それこそが人間らしさ
その心の闇と向き合い、どうコントロールしていくか
それが 生きるということで
それが よりよく生きるということである
テレビやネットから溢れる

有名匿名多数の”真実”

そんな家のドアを開けたら忘れてしまうような
そんな大量消費される 作り物の”真実”ではなく

生きた人間の その本当の闇に触れる その覚悟はあるのかということ

ぼくらはあまりに尊大になり過ぎているのではないか
慎むべきところは 厳かに慎むべき

中途半端な気持ちや好奇心であったらやめておくべき

本当の本当の”真実”は

警察にだって 裁判官にだって おそらく本人にだって
本当の姿を見せることはないだろう

それはいつだって 誰かを通した”真実”でしかないから 

おそらくどちらも正しくて 

どちらも少しだけ まちがっている

それでも知りたい 知るべき という考え方だってある




オルロからウユニへと続く線路
その路傍に連なるカラフルな花のようなもの
近くで眺めてみると それはすべて小枝に巻きついたゴミであった

風に吹かれてやってきたゴミ

それがどこからやってきて どこへ行くのか

うぁこれはひどい、、と思うと同時に
でも自分だって その消費社会の申し子だという”事実”

無責任に何かを批判する権利はない

それは好奇心の遥か向こう側にある

だから いろんな角度から見つめることが大切で

そして 自分の心で判断すればいい

決めるのはいつだって自分の心だ

そして 自分にできることは何かを考えて 行動に移す

これは言葉で言うほど簡単なことではない

「淵を覗く者はまた その淵からも覗き返されている」


それでも真実を知る覚悟がありますか?


世の中には知らなくていいこともあるし
知らなくてはいけないこともある
いくら科学技術を進歩させたとしても
人間の思考能力が倍になるかというと
決してそんなことはない

1日は平等に24時間だし
人間の心の働きだって変わっていないはずだ

自分にできることは限られている

でも ただいつだって できるだけ冷静な目と頭で

”真実”を見つめ

自分で判断したいと思っている