「世界がもっと平和にならないかな」そのために自分にできることは。 海原を漂う一本の流木のように、漂うままに広い世界を。そして海のないボリビアから浅草、そして青い島へ。まじめなことからフマジメなことまで。小さな島から日本を、そして世界を想う。
20110318
千羽鶴はいらない
昨日の全国紙の一面を飾ったのは、放射能測定を行っている赤ちゃんの写真だった。
ここボリビアにおいて、日本の地震についての人々の関心は、おそろしく高い。
気を使ってか、仕事をしているとみんな傍に来て地震の話をしていく。
基本陽気なカンバがシリアスな感じで。
同様に世界中の友達(たった一度旅先で出会っただけの)からも、引き続き日本へのメッセージが届いている。心が温まる。
被災者応援のメッセージ写真や、映像を作ってキモチを届けようとしている仲間もいる。
"facebook"上に立ちあげられたボランティアグループでは、「今できること」について盛んに議論が行われている。ただ、自分たちがやりたい、というだけでなく、被災地の方や日本の状況はどうか、本当に意味のある支援は何か、活発な意見が飛び交っている。
自発的な動機に支えられた活動であるということ、実際に活動に移すことを想起して具体的に話し合いを進めていること、そして生きた情報の共有。「天命」だ「天罰」だと悲劇を訳知り顔で語るだけではない。会をリードしてくださっている方も、行方を見守っている方も、自らで動いている方も同等に、新しい未来への一歩を踏み出している。世界に散らばった仲間が共に力を合わせば、24時間連続して作業し続けることができる。想いをつなぐバトンは世界を巡る。これはすごい。
今の自分が、できること。
昨日、巡回指導先の集落の学校で、複式学級の先生方を対象にした研修を行った。
その中で少し時間をもらって、日本の地震の話をした。
被害の状況、人々の助け合い、被災下での行動、日本の家族からの話、世界中から寄せられる祈りの言葉、それに対する感謝、人と人との絆の強さ、等々。
話している途中、何人かの先生方の目がうるんでいることが分かった。
技術重視で想像力を育むことが欠けていると言われる教育、個人主義と言われるこの国の人々、、なのに、地球の裏側の出来事に対して心から悲しみ悼むことができる。何かと場当たり的でテキトウとか思うけど、そんなボリビアの人たちがすきです。
30分で着く距離を2時間半以上かかっちゃうような交通網しかなかったとしても、
月曜のフットサルで突然キャプテンマークを渡された理由が、集まりが遅いことへのイエローカードを押しつけるためだったとしても、
カウンターパートが前夜に酒を飲むと、決まって仕事を休むとしても、、
やっぱり、この国の人たちすきだなぁ。
この人たちと、この国と、子どもたちの笑顔のために働いていきたい。そう思う。
鶴を折りながら話をする。 願いを込めながら鶴を折る。
日本に送りたいのは、鶴ではない。実際、仲間の書き込みで、「千羽鶴はいらない。今は日常品が不足している。」とあった。その通りだ。もうちょっと落ち着いたらありがたいと思うだろうが、切実に必要なものはもっと他にある。何かを送るときには、受け取る相手の願いや状況をよく見極めなければならない。
鶴を折りながら学ぶのは、「人と人とのつながり」
まるで一つの教室の中で起こったできごとのように、世界はやさしさでつながっている。
「真剣な表情と笑顔、どっちがいいかな」
「日本を元気づけるなら笑顔の方がいい」
彼らは想いをこめた鶴を手に、満面の笑みを湛えた。それが笑顔の理由。
今の自分だから、できること。
大きなプロジェクトでもない。整った構図もない。日常の頑張りの延長線上にある一枚。
ただ、今の自分にしかできないこと。先生たちに平和の種を蒔くこと。
持って帰った折り鶴を眺めた時に少しでも思い出してほしい。日本のこと、地震のこと、今日のこと。
日本を励ますために、メッセージをたくさん集めて送る。
”誰でもいいから”ではなく、ちゃんと話をして、日本のことや自分の国のことを考えて、想いを募る。
「誕生日を祝いたいから、誰でもいいからメッセージをください」ではない。
よくわからないがメッセージを書いて写真に写る。プロジェクトやキャンペーンのために、協力を依頼するのではない。見栄えのいい写真がたくさん集まったらそれはいいだろうが(実際は心がこもっているかどうかなんて写真からは判らないが)、誰かにボランティアを押し付けるようなことだけは避けたい。
目的と手段が入れ替わらないように。
小さな授業を通して、学校教育の質が少しでも向上すること。
小さな授業を通して、今の日本で起きている変化を世界に伝えること。
この国の未来を育てるために、今自分ができること。
授業の最後に、子どもたちにも伝えてほしいと結んだ。
それは「悲劇」としてではなく、「助け合い」や「やさしさ」を学ぶために。
「日本に戻ってボランティアをするぐらいなら、その飛行機代を寄付してほしい」
その考えにも同意できる。
もちろん家族や地元が被災した方なら話は別だが、今一度自分の活動を見直したい。
今ここにいる意味。与えられている立場。自分に求められていること。
青春の休暇を過ごすためでも、思い出を作るためでもない。自分の願い。
「特に何もせず冷静に日常通り過ごすことも、被災者を支援することになり得る」
自分の日常を今までより少しでも真剣に。やれることを変わらず頑張っていく。まずはそれありき。
言葉が足りないなら今よりもっとやるしかない。必要とされていないなら、必要とされることを探し、必要とされるようにあらゆる手を尽くす。決して言い訳をしてはいけない。
特に協力隊が仕事をしなかったら、それは税金のムダ遣いということ。
それは間接的に日本を苦しめていることになりませんか?
今この文章を推敲している時間ですらそう。常に自分を省みながら。
それプラス今、自分のやりたいことを実現させていく。
今、「千羽鶴はいらない」のだとしたら、、
考え過ぎると動けなくなるのは常。故に地味だけど、今日も水を撒き続ける。
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