20110722

木曜日の幸福論

6月2日(木) アヤクチョ村、左食堂にて。姉弟写真。





7月21日(木)。雷と共に、冷たい雨が降り始める。



木曜日はアヤクチョ村の小学校へ巡回の日。

4年生のフェルナンド先生のクラスで、写真を見せた。
プレゼント用に何枚か印刷してきたものを持ってきたのだ。

その中の1枚に先月の2日に撮影した写真が混ざっていた。左食堂の子どもたちの写真だ。



「  Su mamá se murío  」



この写真を見た子どもたちがつぶやいた。


= 「 彼らのママは死んだ 」


それはつぶやきというよりはむしろ、「ここの家のママはクッキーを焼くのがうまいんだぜ」というぐらいの、

影のない明るいトーンでの「ここの家のママは死んだ」。


出産というのはリスクが高いというのを、教わったことがある。
この国の乳児死亡率が高いのと背中合わせに、母体へのリスクも高いということ。

そして同時に、確かに深く悲しいことだけど、それが特筆すべき悲劇としては語られないという現実がある。


親子の絆が特に深いボリビアのこと。下の男の子たちはきっとまだまだ母親が恋しい頃だろう。パンツもはかずに鼻水を出して地べたを這いずり回っている末っ子。お姉ちゃんが母親代わりとしてしっかりと面倒を見ているに違いない。そういうさびしさを乗り越えて、姉妹兄弟で力を合わせて生きているのだろう。。



この子たちの笑顔の裏には、そういう類の悲しさが秘められているのだ。と、、、



1年前の僕であったら、1枚の写真に必要以上に感傷的なキモチになってしまったかもしれない。

そして、胸のイタミにさいなまれて、自分は何もできないなんて、、自己に陶酔して満足して完結してそれでオワリ。

多分何もできない、ていうかしない。




でも、彼らの現実は少し違う。

そういう種々の悲しい出来事はあったとしても、彼らは決して不幸ではない。


ぎりぎり電気が通っている町に住んでいて、板を打ち付けただけの家に住んでいて、末っ子はパンツも履いていなくて、雨の日でもはだしでその辺を歩いていて、暇だから家の前のどぶで遊んでいて、ハエがたくさんたかっているベッドに姉弟みんなで寝ていて、母親を早くになくしてしまった。


だからと言って、必ずしも不幸だとは限らない。

この1年間、町の一人として暮らしていく中で、彼らのリアルに少しずつ近づいていくと、今まで見えなかったものが見るようになってくる。


板張りの家に住んでいるからといって、不幸だとは限らない。この蒸し暑い気候ではむしろ涼しく快適な位だ。


ぼろぼろの洋服を着ているからといって、不幸だとは限らない。生きるために必要なものがシンプルになっている。流行に流されるわけではなく、気に入ったものを大事にしているということ。


裸足で歩いているからといって、不幸だとは限らない。暑い日なんかは逆に気持ちがいい。


地べたで遊んでいるからといって、不幸だとは限らない。無から有を想像している。与えられたもので”遊ばされている”のではなく、もっとクリエイティブかつワイルドに”遊んでいる”のだ。


ハエがたくさんたかっているベッドに寝ているからといって、不幸だとは限らない。家族みんなで一つのベッドで寝ることの温もりがある。


母親を早くになくしてしまったことは、、、不幸だと言えるかもしれない。。

だが、兄弟、姉妹、おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、いとこ、はとこ、おいっ子、めいっ子、、、そしてそれに(義)をつけたものを加えると、、もうすごい数の家族で共に暮らすスタイルがフツウであるこの国。母親の代わりに姉弟の面倒を見る人はたくさんいる。(それでも母親の代わりにはならないだろうが)

そういうたくさんの家族で暮らすことの幸せ。


きれいなマンションに住んでいて、きれいな洋服を着ていて、ピカピカの運動靴を履いていて、でも遊ぶ暇がないほど習い事や塾に通っていて、一人部屋のベッドで一人で寝ていて、でも両親からの愛情に飢えていて、自分を不幸だと感じている東京の小学生を、僕はたくさん知っている。




どちらの方が「幸せ」で、どちらの方が「不幸」かなんて比べることはできない。


いやむしろ、比べる意味がない。



1枚の額縁に入った写真を鑑賞するように、ちょっと離れた場所(若干上から)から眺めるのではなく、もっと近くで日常として接してきたリアル。


彼らはもっと楽天的に、ハッピーに日々を生きている。


人生における「不運」や「不遇」はあっても、決して「不幸」ではないのだ。

それでも偶に、びっくりするほどの現実に出遭うこともある。

でも、それでも絶対に「不幸」ではないのだと、今はそう思う。



「やさしさ」の対局にあるものが「無関心」であるとして、その関心の向け方は、

僕らのものさしに当てはめ、ちょっと高い位置から「かわいそう」だなんてそういうことではない。

いや、そんな失礼なことはないでしょ。


もっと同じ目線で、対等な関係で。

「途上国を支援しにきた」のは、あくまでも技術的な問題で、根源的な”ゆたかさ”については基本的にはギブ&テイクの関係性だ。

そういうことを理解していると、違った世界が見えてくる。



自然を感じられること、家族が近くにいること、生きるために必要な極々シンプルな要素を理解していること。

この3つにおいて、彼らは限りなく「幸せ」であるのだと、今は感じている。



降り続くこの冷たい雨は、僕の感傷的な心を演出するコドウグではなく、

家族の温もりを、小さな幸せを感じることのできる、ささやかな「幸せ」だ。


数ある「不運」や「不遇」を乗り越えて、木曜日。彼らは今日も変わらぬ表情を見せる。

いろんなことを乗り越えて見せる、フツウの笑顔。

それは「不幸」な者が見せる笑顔ではない。絶対に。


そして僕は、今日も写真を撮る。

そしていつも、小さな幸せをもらっているのは僕の方だ。






3 件のコメント:

  1. こんにちは。
    こちらのエントリー、私のブログで紹介させてもらっていいですか?

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  2. ジュンさん!

    ブログ拝見させてもらいました、、
    いいっすねすごく。自分のブログは主観と気持ちがメインなので、客観的な視点でデータもしっかりしてるジュンさんの書き込みは説得力があり、すっと頭に入ってくる感じです。

    ブログを書く目的は、すでに達成しつつあるんじゃないでしょうか、、?隊員を目指している人、国際協力に夢を描いている人にぜひ読んでもらいたいですね。ぜひとも。

    上記の件ですが、ぜひ喜んで!こちらもリンク貼らせていただいてよろしいでしょうか、、?

    今後ともチェックさせていただきますー^

    今度会った時には、もっといろいろ何か話しましょう。こんなに哲学のある人だったとは。。前回はちょっともったいなかったなぁもっと早く気づいていれば、、

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  3. ふっふっふ。
    私は似た思考回路がある事に気がついていましたよ(笑
    やたら馴れ馴れしかったでしょ(笑

    リンクOKです。お願いします。

    紹介させてもらいたいなと思ったのは、仰るとおり、私のブログでは主観と気持ちで書くのが難しくなってきていて、このエントリーに書かれているような事も書きたいのですが、白々しくなってしまうんですよね。それに、ラパスでの生活では同じような経験はできないもので。

    なので、時々気になったエントリーをブログで紹介させてくださいね。

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