20110831

月太郎、深呼吸







「 太陽の”陽”子さんね 」

お日様のように明るく、みんなを照らすようなNHK朝ドラの主人公




こちらの学校で、自分の名前を紹介する時には、、

①ひらがな、②カタカナ、そして③漢字を紹介し、特に漢字は音だけでなく意味も込められているということを伝える。

赤ちゃんが生まれた時には、両親が願いを込めて名前を付ける。
日本人は一人ひとり、そういう願いを抱いて生まれてくるということだ。

そういう文化は非常にステキだと思う。



”中野陽太郎”は、" Medio Campista Niño del Sol "(サッカーのミッドフィルダー・太陽の子)ということになり、フットボール好きなんですよーみたいな感じのつかみで授業を始めていく。


ちなみにボリビア人は2つの名字を持っている。
一つは父方の姓、一つは母方の姓。

カウンターパートの名は、

" Jesús Efrain Donaire Sánchez " → ”名前①、名前②、父方の姓、母方の姓”の順である。

この両親の姓を受け継ぐ文化。例え親が離婚したとしても本人の生まれ持った姓は変わらない。


「 だって親が分かれたって、本人が変わるわけじゃない 」

生まれてから死ぬまで、ずっと同じ名前。



家庭の事情により、突然名字が変わってしまうなんてことが日本の小学校ではある。

クラスメートの呼び名が、ある日を境に変わる。

家庭の事情なんて誤魔化したって、それが親との別離によるものだということは東京の小学生なら低学年でもわかる。でも言わない。曖昧ににごす。

日本の結婚制度は、家と家との結びつきという意味合いが濃いのだろう。
それに比べるとボリビアのそれはもっと個人同士の約束というかたちか。

こちらの日系人の方たちも皆、" Yonekura Fukuhara "や" Ikeda Asano "のように2つの名字を持っている。



さて、話を名前に戻そう。


「 太陽の”陽”太郎 」

ではないかな自分は。そう思う。



コロンビアにいる友達の送ってくれたメールの中に、こんな言葉があった。

「 陽太郎くんは、『太陽ってよりも月のようだな』って僕は感じてんねん 」(彼のトークは関西弁なのでそのイメージで)




どきっとした。



太陽とは違って、満ちていったり、欠けていったり、かたちを変えていくところ。

そこまでの絶対的で、強烈な光を放つほどではないところ。

ほんとはルパンよりも、次元的なポジションがしっくりくるところ。

戦隊ものでは絶対に赤よりも、青か黒!

そしてどちらかというと、日の当たらない道を好んで歩んできたところも。



あぁそうかも。月っぽいかも。



でも最近思う。月はいいな。




だって、独りじゃない。たくさんの星に囲まれて、時にどっしり、時に頼りなく浮かんでいる。

太陽の光は、周り星たちの輝きを奪ってしまう。実は見えているはずの星たちの光も。

今にも消えそうなほっそい月には、いつもよりたくさんの星たちが周りを囲む。

新月の夜にはもう最強MAX。サンファンでは、普通に天の川まで夜空を架ける。

そして、東京では感じなかったが、月影の濃さ。月の明かりは想像以上に強い。

でも太陽の光とは違う、さらさらとした静かで厳かな明かり。



いつだって何かに照らされて輝いているのだろうな。

父さん、母さんごめんなさい、、!!
今は太陽よりも、月的なものに憧れる。




太陽は、いつだって僕の周りに在った。そして今も。

それが友達だったり、サッカーボールだったり、尊敬すべきオトナたちだったり、同じ志を持つ仲間たちだったり、出会ってきた子どもたちだったり、描いた夢だったり。そして、ツマの笑顔だったり。





そうゆうものに照らされながら、今日も微かな光を届けたい。


「 太陽に照らされた、”月”太郎 」


ふくらんだ想いも、願いも、迷いも、ゆっくりと静かに夜空に吐き出していく。







月、欠けていってるから、大丈夫ですよ


( 西加奈子「きいろいぞう」より )


20110823

フライングマンゴー

            8月18日(木)アヤクチョ小学校にて幼稚園生と。
            強風のため飛んでるのか飛ばされてるのか、判らない状況。 



2週間、ボリビア国内を旅行していました。妻と久々の再会でした。

JICAボランティアには「配偶者一時呼び寄せ」の制度があって、自分の妻または夫、そして子どもを任国に呼ぶことができます。MAX2週間。国内限定。ですが、これは非常にありがたい制度です。

自分の暮らしている環境や活動先を知ってもらうということ。
そして何よりも妻の目を通して、ボリビアの良さを再発見できたこと。

それが最大の収穫でした。

その時、出会った景色などは改めて綴っていきたいと思います。しばらく留守にしていたのは、そういうことでした。


たった2週間でしたが、いろいろ変化がありまして、、

まず、ブログが5000Hit!!

これって冷静に考えたら相当すごいことです。。
これは驚きを通り越してあるイミ恐怖(言葉の責任という意味において)の域に達しています。


「言葉は公共物」


というのはある有名な小説家がエッセイで書いていたことです。その辺、心していきたいです。



そして、幼稚園の先生が変わっていました。。

けっこういい先生だったのに、、あまりに突然過ぎて唖然です。ということで、最初は幼稚園生とおべんきょうして、日本文化紹介として折り紙で遊びました。結構好感触だったので、算数の初期指導の数字遊びなんか一緒にできたらなぁと計画しています。


さらに先日、妻とともに訪れていたせいか子どもたちが前よりもさらに親しげです。この国では家族を紹介するってのは重要なことなのでしょうね。突然の日本人の来訪に恥ずかしげだった子たちが、一気に距離を縮めてきた感じです。これはもっと積極的にアピールしていこうと思います。


さらにさらに、もうすぐ春ですよ、ということでマンゴーは今満開の花を咲かせています。

花といっても細かいのがどわーってしてて、愛でるような情緒は感じさせません。
でも、たくさん実がつきそうなぎっしり感はあります。






そんな中、アヤクチョ村にちょっとフライング気味に実を付け始めた、マンゴーの木を発見!!


他のものと比べると、3ヶ月近く早いんだそうです。
試食してみると、まだすっぱいですがちゃんとマンゴーの香りがしました。
すじもなくてけっこう食べやすそうな感じ。
野菜センセイと、マンゴー先生が前から目を付けていたそうです。

これはビジネスチャンスだと言っていました。
3ヶ月早かったら、これはいい値がつくに違いない。

もう冬も終わり。

もうすぐ春、というか長い長い夏のハジマリ。




そうそう、ヒダリ食堂のお姉ちゃんに写真を渡しました。

大人っぽく見えても、並んで歩くとまだまだ小さい。

そして笑った顔は、無邪気な子供の表情をしていました。

季節は足早に移り変わりますが、そんなに急がないでいい。

ゆっくりオトナになっていけばいい。






木を植えた男

            授業が終わった後も水を撒き続ける。声をかけるとはにかむ。 
            この畝に植えられた種が芽を出すのはそう遠くないことだろう。




8月17日(水)

2週間ぶりに訪れたエンコナーダ小学校。
少し遅れて到着すると、7年生は畑仕事に精を出していた。

半年前に比べると、表情も少し穏やかになったように感じられる。猿山状態だった以前に比べると、秩序というか責任感というか確かな成長が感じられる。それはただ、年齢的に成長したということなのかもしれない。44人での生活に慣れ、それぞれの立ち位置も安定してきたということなのかもしれない。もちろん全員ではないが、ゆっくりと何かが育っている。

授業の中で何か喜びを得ているような、
そんな真剣な表情が見られるようになったのは嬉しい。


カンバの農業は、基本的に世話をしない。

冗談みたいな話、食べ残しのトマトを排水溝に投げるとそのうちトマトがなる。そんな大地に恵まれ過ぎた土地柄。畝を作って、絶やさず水を撒いて、畝を作って間隔をあけて植えて、、そんなひと工夫で味も収穫量も増すというのにそういうことはあまりしたがらない。

だから、学校で。子どもたちに農業を教えることの意義は大きい。

農業のプロである同任地(お隣さん)のつるだ隊員の助けが非常にありがたい。
野菜先生がいることも、子どもたちにとって大いにプラスとなっていることだろう。


土を耕すこと、種を蒔くこと、水を撒くこと。


植物を育てるという行為は、自分自身の心を耕し、そこに蒔かれた種にも水を注ぎ続けるということなのかもしれない。世話をしないと枯れるというところもいい。

地道に注ぎ続けた愛情は、やがて芽を出し、花を咲かせ、身を結ぶ。

「木を植えた男」は、そうやって森を作った。

作ったというより、地道な日々の作業が結果、それが森になった。いや、気付いたらそれが森になっていたという方が正確か。それは彼の人生のスパンよりももっと長い地球的時間での話。壊すよりも作る方が難しいという話。人間のできることなんてちっぽけだけど、日々の営みが世界を変えていく。

植物を育てるというのは尊い作業なのだと、改めて感じる。


「育つものが近くにあるシゴトはいい」

地元の運動具屋の店主兼、小学校からお世話になっているサッカーチームのコーチの言葉だ。酒を飲むとカラオケが全部イツキヒロキになるが、指導哲学があるからいい。

どんなに大敗しても、勝つための指導はしない。育てるための指導をする。5年後、10年後にその良さに気付くような、そんなぼんやりした感じ。でもJリーガー出てるし、日本代表に選ばれた選手も排出しているのだから侮れない。ここで学んだことが、教師としての自分の原点になっている。

密かに師匠と慕っている。いいこというなーていうか尊敬してますまじで。



思うようにいかないからいい。変化があるからいい。

育つものに触れていられるのは喜びだ。そういう意味では教師は最高に幸せなシゴトであろう。

大根がかなりいいサイズになっていた。自習調理実習をやろうと提案してみた。
日本だとこういうのはかなり難しいのだが、さすがボリビア!2つ返事で快諾。

テーマは「日本の素材を使って、現地で手に入るもので味付けした料理」

ちゃんと世話をするといいことがあるんだと、そういうことでもモチベーションを上げていきたい。






" Los chicos que cultivaron verduras "


 Los chicos que viven en la comunidad de La Enconada sembraron las semillas. 

Y luego, todos los días les siguen echando agua atentamente.    

Al mismo tiempo siguen echando agua a los corazones de ellos mismo.

Espero que florezcan y esten cargado de cosecha, algun día.





「 野菜を植えた子どもたち 」


エンコナーダ村に住む子どもたちは種を蒔いた。

そしてその後、毎日丁寧に水を注ぎ続けている。

同時に、彼ら自身の心にも水を注ぎ続けている。

いつの日か花を咲かせ、豊かな身を結ぶことを願って。

20110802

笑顔の花畑







笑顔の花を咲かせたのは

カメラマンの技術でも話芸でもなく

お母さんがそっと、耳元にさしてあげた

一輪の花

世界中のすべての武器を、花束に替えて

人々の心にそっと彩りを加えていったら

世界はきっと、笑顔の花畑に







実家の近くにあった「うみないび」という地元の沖縄料理屋さんの壁に

「 すべての武器を楽器に すべての人の心に花を 」

そういうラクガキがあった。
いや、ラクガキとか言ってはいけない。喜名昌吉さんの名前(サイン)があった。

ずっとホンモノだと思っていたけど、、もしかしたら、というかニセモノの可能性が高い。
よっぱらいが勢いで書いたのかもしれない。でも、そこはあえて聞いていない。
そういうことはあまり重要ではないように思う。

そういう言葉が、魂をもって、東京都は練馬区の小さな食堂の片隅に綴られている。
彼の言葉が燈台の灯のように、ひっそりと、でも確かに道を照らしている。
それが本人の直筆であろうと、誰かの心を介したものであったとしても、たいした問題ではないのではないか。

その言葉は、その心は、しっかりと息づいている。

ママの作るうちな~料理の味とボリュームにあいまって 
純粋に、その言葉の持つ力に惹きつけられたのを覚えている。


「 世界を笑顔の花畑に 」


そういう言葉を送ってくれた仲間がいる。
彼は今、世界で一番最後に沈む夕陽を眺めながら、世界中にエールを送っている。 


「 笑顔の花 」


日々その花を咲かせるために、心を尽くしている仲間がいる。
彼女は今、その優しい笑顔で、子どもたちの心に温かな陽を注いでいる。






いい笑顔に出逢った。

何だかすごく伝えたくなった。





憎しみは憎しみの連鎖を


笑顔は笑顔の連鎖を生む


武器ではなく、花を


そして、いつか世界を笑顔の花畑に




逢いたい時に



  


逢いたい時に

逢いたい人と逢えることが

”ゆたかさ”だと
  

ブログに綴っていた仲間がいた
  
彼にはきっと逢いたい人がいるんだろうな
  
両親、兄弟姉妹、祖父母、友人、恩師、恋人、妻

もしくは密かに慕う人

 逢いたい人に逢えることが、”ゆたか”なことなのだとしたら

逢いたい人に逢えないことは、”まずしい”ことだと言えるのかもしれない

 でも、会えない時間の中でこそ、少しずつ少しずつ互いに育まれていくものもある

会えないからこそ

深まる絆だってある

孤独が人間を成長させる、そういう言葉だってある

だからきっと、イチバン”まずしい”ことは

逢いたい人が誰もいない、そういうことなのかもしれない

例え今すぐに、会うことができなかったとしても

もっと逢いたい人がいる人生、また逢いたい人に出逢えた人生は


きっとそれだけで、すごく幸せなことなのだろう

  
だから、逢いたい人に逢えなくても、また逢える日を待つ時間も

それが幸せのスパイスだと思うと、すべて愛おしく思える


その出逢いと、今に感謝したい



でも本音は、逢いたい人と逢いたいと時に逢いたいし

ずっと逢いたい人が、ずっと傍にいてくれる人生は最高だということは間違いないから

そこはやっぱりシンプルに叫んでいきたい