22-1の中間報告会について、もやもやしていたことがあったので、考えをここに記したいと思います。
これは一般論というよりは、教師として、という前提で進めた論になります。
読み返してみて一部、過激な表現があり、公開するに相応しくないかなと思われる箇所がありました。読んで、不快な思いさせてしまったら申し訳ない。その際には、ぜひご一報を!
人間的にはもちろんすきですし最高の仲間だと思っています。だからこそお互いにシビアな目をもった方がいいかな、という思いです。
「相手のためを思うのなら、直接本人に言う」というのが、大原則です。
「〇〇ちゃんが〇〇してたよ」なんて先生への告げ口は、相手のためを思っていない。自分はいい子でしょう?のアピールです。そういう時は、
「〇〇ちゃんにそれを注意してごらん」と言って、もしそれで聞かないようなら先生のところにもう一回おいで、というとだいたいはそれで終わります。つまり、それほどではなかったということ。
柔らかく書いても気づかないので、今回はストレートに書いています。
お互いが切磋琢磨できる関係であることを願って。
聴講者の感想からは、内容の濃さと同時に、発表時間の長さについて指摘がありました。
教師の世界で言えば、基本的に授業は1コマ(45分)に収めるというのが一つのプロ意識です。
もちろん現場はもっと柔軟で、児童の学習の様子に合わせて計画をその場で修正していくというのが実際です。
ですが、例えば子どもの考えが引き出せるまで時間を費やして、全員が終わるまで作業させ続けて、先生がしゃべり続けて、好きなだけ時間を使って、、それがどんなにいい教育だったとしても、それはいい授業とは言えない。
そういう授業は計画性のない、行き当たりばったりの授業にありがちなことで、残念なことにボリビアの教室ではそういった光景がよく見受けられます。先生が時計を意識していないので、作業の途中で鐘がなり授業が途切れる。作業が途中で終わるか、休み時間を無視して作業を続けさせる。。
チャイムが鳴っているのに授業を続ける先生。
僕はそういう先生が嫌いでした。そういう人に限って授業の内容が芳しくない。
逆におもしろい授業をする人であれば、授業の後だって質問に行っていた。自分の興味や関心が刺激されて、勉強っておもしろいなって思うようにもなる。
いい授業は45分で終わるけど、その後も続いていく。
先生がやめよう、と言っても学ぶことをやめないのです。
もともと、45分に収まらないのなら、50分や2コマ連続で指導案(授業の計画)を作ることもあります。
大切なのは、それを計画するということ。だから、ハンセイがありカイゼンがある。
今回のケースで言えば、10分に収まらないのなら、15分、ぎりぎりの20分で計画を練って話す内容を整理し、それで評価をすればいい。
むしろ10分がムリなら「20分や30分の発表がしたい」と、事前に交渉すればいい。
「リハーサルをやらないのに、時間オーバーをどうこういうのがおかしい」
それ以前に、本番を想定して練習を1回でもやったのか?話したいだけ話して時間オーバーして、それを事務所があつらえてくれないというのはただの言い逃れに過ぎない。単純に指摘に腹を立てているだけかもしれないですが。
企業の常識は、世の中の常識ではない。そのことについてはまた別の機会に綴りたい。
もし、公式なリハーサルがあるというのなら、こちらの資料ももっと事前に準備をし、内容だって自己満足に終わらないものを用意しなければならない。
僕は今あるような内輪の中間報告会には、そこまでのリハーサルは必要ないと思う。
ある国では、現地の言葉で、国内の諸関係者を呼びボランティアの活動をアピールするという形式をとっているそうだ。このケースなら、リハーサルは必要でしょう。
要は意識の問題で、それぞれが内容を高めていけばいい。
「そんな細かいこと気にするな」という意見には基本的には賛成だが、その言葉は人を選ぶ。
若いとか年をとったとかいう問題ではない。
そういうビックマウスは、やることをやっている人がいうからいいのであって、そういう型破りさをただかっこいいと思っているだけの人は正直、サムい。
「やることはやってきた」口では何だって言える。
でもそれが自己満足ではいけない。そういう客観的な目を持つことが重要で、それが向上心につながる。問題は、ほんとにそれで満足してんの、、??ということ。
正直、発表の服装なんてどうでもいいと思っている。
フォーマルなジーンズもあれば、くだけたスーツもある。
ようは”カタチ”よりも”ナカミ”ということ。
時間なんてちょっとぐらいオーバーしたって、服装だって、かたちだって細かいことは気にしなくていい。でも大事なのはその”ナカミ”。
自分の用意した資料を見返してみるといい。判る人は判っている。
もしそれで何も感じないのなら、今の時点でいいと思っているのなら、もう何も言うことはない。
人を批判する時は、自分のことを棚に上げないと難しい。
つまり、自分のことには目をつぶる。
だから、自分に対してもそういう問いを投げかけていきたい。
だいたいは言われなくても分かっているのですが、客観視して実際に行動に移すのは難しい。
でも、そういう向上心がなければ、教師としてこの先つらい。
社会が変われば、子どもも変わる。
でも、変わらない教師がいたとするのなら、その出会いは不幸だ。
普遍的な良さというのもあるけれど、専門の引き出しを広く多くもつというのも教師の技術である。
「自分このままでいい」と思っている人は、基本的に教師を辞めてほしいと思っている。というか、向いていない。
教師は「教える」ことのプロである以上、「学ぶ」ことのプロでなければならない。
でも、実際にはいろいろな人がいるから強要はしない。
ただ、正直いい迷惑だ。それは仲間に対してではない。
教室で向き合う子どもたちがだ。
と、こういうことはみんな全てわかっているんです。
だからこそ、自分を客観的に見る目が教師には必要になってくる。
30を過ぎてそれなりに実践を積んでくれば、周りから何かを言われることは減ってくる。
それは実践が成熟してきたということもあるし、言いづらくなってきたということでもある。
自分なんかも特に、がんばってきた自負もあるし、弁も立つ。
なおさら、よくないことを言ってくれる人はいないだろう。。
自分で気づけなかったら、オワリだ。
それは職人気質があり、一人親方的な教員の最大の欠点とも言える。
最終的には、「おれについて来い!」でいい。
でもそのために、向上を。
型破りでやって、その割にナカミが今一つだとして、それでいい(それがいい)世界がどこにあるのだろうか、、?アーティストなんかはそういう感じなのかな、、??死んだ後に評価されるとか。でも教師は生きた人間を相手にするシゴトなので、それでは済まされない。実害がある。やめてほしい。
誰の発表が心に残ったということは言えるが、その優劣はつけられない。つける必要もない。
それぞれの条件がまるでちがうからだ。
ただ、プロとして参加している意識があるのなら、、という話。
自分のことを棚に上げて、子どもに何を教えられるというのでしょうか。
でも聖人君子である必要もないと思います。人間ですから、あくまで理想で。
何回も失敗します。でも、大切なのは向上心だというわけです。
型破りで、その結果(目に見えるものと見えないもの)がサムかったら、それは本当に残念です。
自分が転んだ時、「なぜ助けてくれない」「それ以前に道が悪い」等々、人のせいにしては後には何も残らない。
失敗しても誰かのせい。成功してもそれは誰かのおかげ。
「自分で立ち上がる方法を考える」ことが、自分を向上させる第一歩。
何はともあれ、自分の欠点を指摘してくれる仲間や先輩の存在はありがたいです。
文章ってこわいですね。一方的に言葉を紡いでしまうと、どうしても攻撃的になってしまう。
基本は対話ですね。これを元に、前向きなギロンが生まれたら最高です。
「ちがう」と思うことは「ちがう」、「いい」と思うことは「いい」
そういうスタンスで積み上げていきたいものです。
もし、聞く耳をもっていなかったとしたら、、いやだとしてもやっぱり仲間でしょうね。
ただ、こういう話はもう二度としないでしょうが。